再開にあたって
実に丸一年ほど、予告なく投稿をお休みしてしまいました。
昨年の新型コロナ流行を機に、自分の働き方が大きく変わったのも一因ですが、
新型コロナの起源やその性質について実に多種多様な情報が飛び交い始め、さらには米国大統領選にまつわるさまざまな事象も加わり、何か時事について投稿しようにも、一体どれが本当なのか、また自分が何か投稿したりリツイートしたら実はそれが偽情報だった、といったことになってしまうのではないかという心配もあり、手をこまねいているうちにいつの間にか一年が経過してしまったというのが実情です。
(八割くらいはただの怠惰としか思われないかも知れませんが(汗))
しかし、コロナも大統領選も大体において情勢が決定し、自分も新しい働き方に慣れて来ましたので、ここいらでよっこらしょ、と再開しました次第です。
読んでくださっている方には、気まぐれで済みませんとしか申し上げようがない(汗)..
で、再開初号は、最近読んで衝撃を受けた、実にタイムリーとしかいいようがない本を、ご紹介したいと思います。
旧ソ連・東欧出身クリスチャンたちの洒落にならない「警告」
日本のキリスト教界を観察していると、左派に染まり切った一部(ていうか大部分?)の教団や神学校の偉い先生方、あるいは某キ〇新の関係者の皆さんからよく聞こえてくる台詞があります。
「〇〇法がついに制定された!この展開は戦前の日本を思わせる!」
「今の雰囲気は戦前の日本にそっくりだ!(←ねえ、ていうかあなたそのとき生まれてないでしょ(爆))
安保法制でも何でもいいです。とにもかくにもサヨク的な世界観でいうところの、今の日本は「どんどん戦前のような軍国主義に向かっている!そうならないうちに声を挙げねば!」という論法です。いつまでたっても現実にならない、オオカミ少年だ、もう聞き飽きた、という人もいるかも知れませんが(笑)。
しかし、今回ご紹介する本では、やや種類の似た、しかし全く方向性の違う警告が載せられています。いや、こっちの警告は本当に洒落にならないような深刻なものです。
「共産主義前夜」との不気味な相似形
私はふとしたことから Rod Dreher という人が書いた「Live Not By Lies」という本(↓)を知り、それを読んで衝撃を受けました。
https://www.amazon.co.jp/Live-Not-Lies-Christian-Dissidents/dp/0593087399
Amazon | Live Not by Lies: A Manual for Christian Dissidents | Dreher, Rod | Conservatism & Liberalism この本は、著者が2015年、ある東欧出身移民の老女の息子から連絡を受けたというところから始まります。 彼女は以前共産政府に対する抵抗運動に従事した後、米国に移住したのですが、共産主義による弾圧をよく知る彼女は、息子に対して「今現在米国で起こっていることは自分の故国で昔起こっていたことを思い起こさせる」と語ったというのです。 それをきっかけに、筆者は数多くの共産圏出身のクリスチャンたちにインタビューしたが、全員が異口同音に現在米国および西欧で広がる全体主義の影に懸念を表明したということです。 政治的あるいは社会的意見を外で述べるときに、肩越しに後ろを振り返って誰かが聴いていないか気にしなければならない。政治的に「正しくない」とされる意見を述べたものはプラットフォームを奪われ、時には職を追われるという対価さえ強いられる。 彼らはこれを見て、「自分の故国で共産主義が支配を握る前に起こっていたことと同じだ」あるいはと警告するのです。 あるいは、「抑圧されていた人々を救う」という名目で、新たな用語が発明され、新たな基準が次々設けらることにより言論がコントロールされ、昨日までは通常に受け入れられていた言葉がその基準にひっかかるようになり、違反した者は極端なほどの罰を受ける。 旧ソ連で生活していたある人は「まさにソ連の政権がプロパガンダを運用していた方法と同じ」と指摘します。 また、共産主義の下で生きる経験を直接知っていたり、あるいは親から聞かされてきた彼らは、米国生まれの米国人たちが「まさかこの国でそんなことが起きるはずがない」と自分たちの警告を本気にしないことに、憤りさえ感じている、といいます。 加えて、著者はソルジェニーツィンという反共産主義活動家の言葉を引用し、「全体主義に抵抗するには霊的生活を整えねばならない」「共産主義を作り出したのは政治的危機ではなく霊的危機である」と断言するのです。 一体どういうことでしょうか? 宗教の欠如と宗教的熱意:リベラル全体主義 今米国のキャンパスを席巻している「ソーシャルジャスティス・ウォリアー(SJW)」。彼らは勉強そっちのけで、「社会セーギ」のため運動し、保守派の言説に対しては「アグレッションだ」として被害者ポーズをとりつつ徹底的に弾圧し、「デプラットフォーム(講壇→すなわち発言の場を奪うこと)」し、ひどい場合保守の学生運動家やジャーナリストを取り囲んで暴言を吐いたり威嚇したりします。 多くの保守米国人がこれらの運動を1990年代の大学左翼と同列に見ており、「世間知らずの彼ら(SJW)も、一度社会に出て働くようになれば変わるだろう」といった楽観論を抱いている現状を見て、著者はこれを完全に間違っていると断言します。 そうではなく、左翼青年たちはやがて職を得てビジネスマンになり、一部は企業の上層部に登ることになるのです。そうすると彼らの影響力により、ビジネス界は嫌が応でも彼らの思想により統制されるようになる。 著者は、現代米国の大企業の方針が奇妙なまでに「ウォーク」思想に親和的であることの背景に、このようなメカニズムを見ています。 上述のSJWたちもまた学校を卒業し、それぞれの就職先でその「ウォーク」思想を浸透させあるいはそれをもとに社会に影響を及ぼそうと活動するとしたらその影響は計り知れないのではないでしょうか? しかも筆者は、「SJWは一つの宗教である」と断言し、論理的説得により彼らを退けられると安易に考える保守派の甘さを痛烈に批判しています。 SJWにとって彼らの「教義」はすでに「絶対的に正しいことが確定した」争いのないものであり、彼らにとって他者との対話は、相手が自らの「罪」を悟って「悔悟」するまでのプロセスに過ぎないというのです。 そして著者は、これら現象の背景にあるものとして、近代西欧における「神の死」を挙げています。 宗教を失った人々が、「神からの規律」よりもむしろ個人の「心理的心地よさ」に忠誠を誓うようになったのです。 人というものは、たとえ宗教が欠如した状態でも、生きることの目的や、他者との調和への渇望、「義しい世の中」への飢え渇きといったものを持ち続けているものであって、キリスト教の衰退によって、急進的左派リベラリズムが、リベラルのほとんど宗教的熱意に近いこういった渇望の受け皿になっているのではないか、と推測します。 「神の死」つまり、人々が神を拒絶しはじめたことに端を発しているというわけです。 「ウォーク・キャピタリズム」の到来
筆者はまた、個人の心地よい生活の向上へのあくなき志向が、消費者データを収集するビッグテックへの依存を生み出し、それが「ソフト」な全体主義への道を整えていると看破します。 ひとは心地よい円滑な生活を求めるあまり、テックカンパニーに個人情報の収集を許し、googleスピーカーなどで家庭内の会話の収集さえも許しています。 これらの企業群は大多数の国民の生活に入り込むことに加え、手にした莫大なリソースを活用し消費者の志向に影響を与えることさえし始めています。 彼らは、消費者の行動からその好みを予測して広告や検索結果の表示などを通じ消費者が求めるものを提供する、だけではなく「あなたに対して彼らが『欲しがってほしい』と思う商品を『欲しがるように仕向ける』」ために努力しているのです。 筆者は、前述の「SJW」的アジェンダが企業群の価値観さえも支配し始めたことと、ビッグテックがそのような力を持つようになったことがほぼ同時に起こっていることに着目し、これを「ウォーク・キャピタリズム」と呼んでいます。 もはや彼らは「社会を自分たちの思い通りに形作る」ことさえ可能な力、それこそレーニンやマルクスが夢に見ることしかできなかったほどの強力な力を手にしたのです。 なおつい最近のことですが、米バイデン大統領当選に伴い、トランプ氏はもちろん、多くの保守派人士のSNSアカウントが凍結あるいは削除されたり、彼らの受け皿となった「Parler」というSNSがアマゾンからサーバ契約を一方的にキャンセルされたりといった事件がありましたが、 著者が警告していた(本が書かれたのは大統領選より前ですが)とおり、ビッグテックはまさに全体主義思想統制の先駆けとなることが実証されたわけです。 新時代の全体主義支配は、あからさまな武力を使ったかつての共産圏での全体主義支配とは違います。今来つつある全体主義は、現在私達がメディアで見るような言論による集中攻撃やあからさまな偏向報道に加え、「アカウント削除」「サービス停止」といった企業による「村八分」により、真綿で首を絞めるように統制していくのです。 この動きはSNSにとどまらず、PayPalといったペイメント業者や、銀行界にまで広がってきています。そうすれば、ある思想についての支持不支持だけで、人が「売ることも買うこともできなようにする」といった未来は、そんなに遠くのものではないということになります。 現代社会の陥穽「癒し文化」とその根底にある「ポジティビズム」 ツイッターなどを見ていても、こういった事件から全体主義の影が近づいていることを感じている人たちがおり、 また、米国では、民主党による議会の優勢や彼らのなりふり構わない行状を見て、危機感に駆られた保守派人士たちがGabといった新たなSNSに集って活発に意見交換をしています。 では、クリスチャンとしてはどうするべきでしょうか? それこそ、現状を変えるために政治活動を通じ声を上げるべきでしょうか? じつは、この本の著者の主眼は(なんと)そこには全くありません。 著者は、保守政治活動を励行するためにこの本を書いたのではないようです。 それどころか、思ってもみなかったような議論で、非宗教保守派、さらにはクリスチャン保守派でさえも陥りがちな落とし穴を抉り出しています。 私は思想史や哲学史は門外漢だったので知らなかったのですが、 「ポジティビズム」、19世紀に登場し現代人に広く影響を与えている思想の一つにそういうものがあるそうです。 「科学の発展が全ての問題を解決する」という命題に出発し、やがて「貧困、病気、その他の悲惨は本来人間がたどるべき道ではない」という考えに行き着いた思想です。 我々現代の日本人からすると、どうということもない、ごく当たり前な考え方ですが、著者によると、この思想は実に革命的なものであって、今から一世紀ちょっと前の我々の先祖たちには想像もつかないものだったといいます。 衣食住が豊かになり医療が発展した先進国社会では、このようにして、人が感じる不愉快、不都合、不便、不満、不幸すべてを取り除くことが最大の目標になっています。 (著者はこれを「theraputic culture」(癒し文化)と呼んでいます。) そして、米国人をして今忍び寄る「全体主義」「共産主義」の影に警戒したり抵抗できなくしているのは、この「ポジティビズム」と「癒し文化」だ、というのです! これはどういうことでしょうか。 どうにか私の拙い筆で手短に説明しようとすると、こうなります。(→英語が分かる方は、是非とも原書を購入して一読されることをお勧めします。まさに「目から鱗」とはこのことだと感じました。) 著者によれば、非宗教的保守派も、共産主義者も、「人類の福利と幸福を追求」しているという点では全く一緒であり、ただその追求における方法が違うだけだ、ということです。 保守主義は、資本主義の名のもと、労働あるいは商業活動といった個人の自由を最大限にすることで、各人それぞれが富を蓄積できることを重視するのに対し、共産主義においては現存する富をまず国家権力に集約したあと分配して全員の幸福を保証することを目指します。 しかし、その二つの思想の根底にあるものは同じです。いかに富を享受し、不幸を避け、福利を味わうか、というだけの話です。 とすれば、前者の資本主義が過剰な消費主義に走り、個人の幸福、快楽、心地よさがすべてに優先されるようになればどうでしょう。 著者は、現代西欧人の価値観に横溢している極限化した個人主義を例にとり、「配偶者と気が合わなければすぐに離婚し、子供がうるさければ即座にケア施設に預ける」といった具合に、生活上のあらゆる不都合をまるであってはならないものであるかのように自分から遠ざけようとする姿勢に警鐘を鳴らします。 確かに、これを追求していけば、もはや社会の構成員どうしの紐帯となるものは存在せず、個人個人はバラバラになります。(今米国では離婚が多すぎるあまり、「両親が初婚で両方とも自分と血がつながっている子供」は少数派になっているそうです) その一方で、個人間の分断が進めば、人々は、SNSその他ビッグテックや大企業が提供するソリューションに、それこそ買い物の相談から孤独を癒すことまですべてを依存するようになってしまうでしょう。 そうして、結局のところ人々は彼らが推し進める「現代のソフト全体主義」の手に容易に落ちてしまうのです。 このように、現在の米国の「神なき資本主義」は、全体主義との親和性が驚くほど高いのです。いや、親和性というより、このまま発展すれば必ず全体主義になるという必然性さえ見て取れます。 本当の「アメリカンドリーム」 こうして個人主義と消費主義に走り過ぎた米国社会の陥穽を指摘した後、著者はこう言い放ちます。 「メイフラワー号で米大陸にやってきた最初の入植者たちのアメリカンドリームとは、[英国国教会の圧政から逃れて]自由に神を礼拝することだった。しかし、現代のアメリカンドリームとは、富を得て心地よい暮らしをする、という以上の何物でもなくなっている。」 現代の米国はキリスト教離れが指摘されて久しいですが、 もしも国民にとっての最大の関心ごと、人生の目的が、物質的な福利だけだとしたら、果たして「富を公平に分配すれば全員が幸福になれる」という共産主義の甘言にどれくらいの人が対抗できるでしょうか? そして、この著者の諫言は、米国だけではなくあらゆる先進国に住むクリスチャンの心にもグサリと刺さると思います。 クリスチャンであるなら、「イエスのためなら患難を受けることも辞さず」と唱える人は多いでしょう。 しかし、実際には、前述の「癒し文化」は、先進国においてはクリスチャンの精神の奥底にも深く喰い込んでいると著者は見抜いています。 なんとなれば、現代先進国のクリスチャンである私たちは、「神様は自分の人生の問題をすべて解決してくださり、すべての不便、不都合、不愉快を取り去ってくださる(はずだ)」と、深層意識で思ってしまっていないでしょうか? これを極限にまで推し進めたのがいわゆる「繁栄の神学」です。この神学では「(祈ったり信仰の言葉を唱えれば)病気は癒え、収入は上がり、パートナーも見つかり、欲しいものが必ず手に入る」といったことを教えます。 これは明らかな異端であり誤っていますが、そのことを理解しているクリスチャンであっても、もしかして心の奥底では「神様は必ず自分の人生で起きる悪いことを取り去ってくださるはずだ。そうでなければおかしい」という想いを抱いていないでしょうか。 そして、その微妙にゆがんだ前提がその人の神観もまた歪ませているがゆえに、両者は「自己の心地よさ」を中心とする神観において大差ないことになってしまいます。 これこそが多くの先進国クリスチャンが抱える特有の弱さなのです。 前述の「癒し文化」が深く教会にまで食い込んでいるがゆえに、もはや米国の信者たちの多くにとっては「苦しみを負ってまで真実のために立ち上がる」といった姿勢は現実的なものではなくなっている、と著者は言います。 この霊的な弱さが、クリスチャンが共産主義やリベラル全体主義に対して抵抗するうえで大きな足かせとなる、というのです。 さらに、著者はこうダメ押しします。「自由な先進国において経験する患難を受け入れられないような信者は、全体主義国家における迫害を決して乗り越えることはできない」。 そして、その弱さを抱える教会は、繁栄の進学を教えるようなものはもちろんのこと、政治的に右派であろうと左派であろうと、迫害が生じたらたちどころに潰れる、と。 これは極めて冷徹に聞こえますが、共産圏で信仰を守ってきたクリスチャンたちに取材してきた著者にしてみれば、やはり言わざるを得ない真理なのでしょう。 →パート(2)に続きます。 |