※この物語はフィクションだから、個人や団体や商標のように見えるものもすべて架空のものであり、
現実にあるかの様に書くけれど実在しません。
 
せいたんパート3 その2
 
高梨独白
目に見えるものをただ見たなら、それを真理という。
見たものを言葉にかえるとそれは想像を含んでしまう。
例えばコピー機に入れた書類が複写されて出てくる。
それをそのまま眺めていよう。
仕組みはどうでもいい。
書類を入れてスタートボタンを押したからそうなるのだ。
そうなることを脳は知っている。
機械でたとえると分かりにくいかもしれない。
桜が咲いて散るのと同じだ。
見たまま、感じることをしなければ、すべては必然的な結果であることが分かる。
また結果はすぐに消滅し、次の状態になり、それもすぐに流れ去る。
したがって結果というものには意味がない、実体がない。
分かることが間接的な理解であることに気づく。
ただ見ること、聞くこと、五感のすべてを心を用いずに観察すれば、
神がいるとか、いないとか、人生の目的や意味などを問うことが
愚問であることを知る。
神はいる。
人生に目的や意味はない。
人の一生の行く末を
本当は誰でも知っている。
死。
目的や結果ではなく、行為の連続だけがあるのだ。
目に見えずとも神はいる。では、悪魔はいるのだろうか。
全知全能たる存在。真実そのものを神という。
それらは言葉のあやに過ぎないけれど。
宇宙にとって善悪はない。
それでも悪魔はいるのだろうか?
 
続く。