昨日、道明寺で御斎をいただいた部屋の床の間に霊鑑寺(京都市)の第四世門跡、宗恭女王の和歌の掛け軸が掛けてありました。
閑院宮家の姫宮として生まれられた、この方は光格天皇の姉宮で徳川幕府十代将軍、徳川家治の嫡男、家基の婚約者でした。
もし家基が16歳の若さで謎の死を遂げなければ、江戸に下って十一代将軍の御台所となられ、その時には家基は光格天皇の義兄になって天皇家と将軍家は緊密な関係になりその後の日本の歴史は大きく変わっていたと思えます。
家基の突然の死は暗殺説が根強く以前は田村意次が首謀者と考えられていましたが最近は十一将軍、徳川家斉の実父、一橋治済が首謀者であったと考えられているようです。
そのように考えると実父が家基暗殺の首謀者であることを知った家斉が、その罪滅ぼしに宗恭女王のおられた霊鑑寺に本堂を寄進したと考えられて興味深いです。
今から半世紀程前に関西テレビと東映が共同製作した連続時代劇ドラマ「大奥」の「刃傷お鈴廊下」の回では当時、若手の人気俳優だった太田博之さんが家基役で田沼意次の悪政を批判したために鷹狩りの途中に訪ねた寺で意次の息のかかった御殿医に毒を盛られて暗殺される設定でした。
この話は三話完結で家基の母親、お知保の方が家基亡き後、大奥総取締の松島から酷い仕打ちを受けて堪忍袋の緒が切れて、お鈴廊下で松島に刃傷に及び死罪を申し付けられ相手の松島にはお咎め無しの裁定に憤った、お知保の方付きの奥女中達が苦難を乗り越え、お知保の方の仇、松島を打ち、お知保の方の墓所で自害する大奥版忠臣蔵の内容になっていました。