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「月刊大和路ならら」2013年5月号表紙

昨日、月刊大和路なららの最新号を入手しましたが、その中で西大寺の歴史について触れられている記述が二ヶ所有りました。

「御仏は語る61」では西大寺の本尊、釈迦如来立像が取り上げられていますが、その中での西大寺の変遷の紹介で小西正文氏は「しかし、貞観二年(八六〇)の主要伽藍の焼失から急速に衰退して寺観の変貌を余儀なくされた」と述べられています。

また「大和の寺の盛衰」(文・坂本久美)という記事で「典型的な西大寺の栄枯盛衰」という項目があり「奈良時代後半に勢威が他を圧していた西大寺も、平安時代に入ると次第に面目を失っていく。承和13年(846)の講堂焼失から貞観2年(860)の火災で主要堂舎を失い、さらに延長5~6年(927~928)の東西両塔焼失、応和2年(962)の食堂倒壊。そして平安時代の半ばには荒廃を極める。」と述べられています。

西大寺の変遷が正しく記述されない書物が多く出されて、江戸時代まで伝えられてきた貞観二年の大火災が無視されている現状を嘆かわしく思っていましたが、今回のなららの記述は、何故、西大寺が平安時代に急速に衰退したかについて的を得たものになっているように思いました。

六国史に記載が無いというだけで、その信憑性を疑って貞観二年の大火災は無視されたように感じますが、飛鳥の川原寺は六国史に記載は無いですが、その時代に大火災に遭った事が明らかになっています。

前にブログや日記で書かせてもらいましたが、貞観三年(861)に東大寺の大仏の頭部の修理が完了して執り行われた法要に西大寺が参加していない事は「東大寺要録」の記載から明らかです。

これからも今回の月刊大和路なららの記事のように西大寺の歴史を正しく伝えるものが世に送り出される事を切に願っています。