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「興福寺曼荼羅図」の絵はがき
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「興福寺曼荼羅図」の中の阿修羅像(絵はがきから)
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明治の修理前の阿修羅像の写真

この日、京都国立博物館を観覧した感想は前に書かせてもらいましたが、観覧後、ミュージアムショップに立ち寄ると「興福寺曼荼羅図」の絵はがきが販売されていたので購入させてもらいました。

「興福寺曼荼羅図」については、これまでにも色々と書かせてもらっていますが、そこに描かれているのは治承四年(1180)に平家の焼き討ちで焼失する前の興福寺の伽藍と安置仏像と見て間違いないと思います。

しかし、そこに描かれている十大弟子と八部衆は、現在、興福寺国宝館に安置されているものとは別物です。

江戸時代の興福寺の記録に西金堂の十大弟子と八部衆は元は額安寺の像であったと明記されていますが、その説に沿い平家の焼き討ちで当初の像が焼失した後、額安寺から移入されたのが今の像だと考えた方が妥当だと思います。

「興福寺曼荼羅図」に描かれている当初の阿修羅像は髪は怒髪で左右の第一手は体の前に平行に出していますが、今の阿修羅像は髪は結髪で、修理前の写真からは、第一手は今のように合掌はしておらず、右手に宝珠を持ち、それに左手を沿える形であったと考えられるので全く別物になります。

研究者は色々な理由を付けて、その不一致をごまかしているように思いますが、阿修羅像に興味のある方が、その真実を自分の目で確かめるために役立つ絵はがきだと僕は思っています。