治承三年(1179)11月、後白河院の院政が停止されると基通は関白に任ぜられ、治承四年(1180)2月には安徳天皇(1178~1185、在位1180~1185)の摂政となります。 

 しかし、同年5月には以仁王の挙兵があり、10月には富士川の戦いで平家軍が大敗するなど世の中は混迷を極めるようになり、翌治承5年(1181)1月には高倉上皇(1161~1181、在位1168~1180)が崩御、閏2月には平清盛が死去して平家は追い詰められていき、寿永二年(1183)5月11日、平家軍は木曽義仲軍に大敗する事になります。 

 そして7月25日には都の防衛を断念した平家は都落ちして西国に逃れる事になるわけですが、この時期、基通は自分自身と近衛家を守るための決断を迫られる事になります。 

 それまでの平家との関わりに義理を立てて平家と行動を共にする事は近衛家に存亡の危機をもたらす事は明らかな状態で基通は、かって、後白河院が自分と男色関係を持ちたいと申し出た事を思い出し後白河院と肉体関係を持って、その寵臣となり後白河院と行動を共にする事で、この危機を乗り越えようと決断したと私は想像しています。

 前に紹介させてもらった五味文彦氏の「院政期社会の研究」では「玉葉」の記事から、その関係は平氏の都落以前に五、六月頃に基通の母白河殿に仕えた冷泉局が「媒」となって成立したもので、「七月廿日比、被遂本意」という事を紹介されていて、切羽詰まった状況で基通が自分自身と近衛家を守るために後白河院に体を委ねた事が想像出来ます。 

 九条兼実が、その辺りの事情を「玉葉」に詳細に記しているのは、基通が平家と共に都落ちして自分のライバルが減る事を期待していたのに、そのようにならなかったので、詳しく調べさせたような気がします。

 もし後白河院に男色の趣味が無くて、基通を引き留めなかったら基通は平家と行動を共にして滅亡か没落の道を辿ったと考えられ、そうなっていたら近衛家という名門が連綿と続く事は無かったと思います。