昨年12月に「後白河院をめぐる男色関係」という記事を書かせてもらいましたが、それに関する色々な記事を深読みすると、後白河院に男色の趣味が無ければ日本の歴史は変わっていたなと思える部分が有りましたので、私なりの推測を入れて紹介させてもらいたいと思います。 

 私が注目したのは後白河院(1128~1192)と近衛基通(1160~1233)の男色関係です。 


 昨年の大河ドラマ「平清盛」でも描かれていましたが、平清盛(1118~1181)の娘、盛子(1156~1179)が父、近衛基実(1143~1166)の正室となり、基実亡き後、基通は盛子の養子となり平家の庇護を受けるようになります。 

 その後、平清盛の娘、完子(生没年不詳)を正室に迎えて平家との絆を深め、後白河院と叔父、松殿基房(1145又は1144~1231)が反平家政策を打ち出した治承三年(1179)10月9日の除目では、既に20歳で平清盛の推挙があったにもかかわらず無視されて松殿基房の子でわずか8歳の師家が権中納言に任ぜられるという仕打ちを受けて、それが11月14日の平清盛によるクーデターの引き金になります。 

 この辺りは大河ドラマでも描かれていますが、何故、後白河院が基通に対して、そのような仕打ちをしたかについては、九条兼実でさえも「玉葉」の中で常軌を逸した措置と非難しており、別の理由が考えられそうです。 

 私の推測では後白河院は、かなり早い時期から基通に目を付けていて、この除目を出す前のある時期に基通に男色関係を持ちたい意向を伝えていたような気がします。 
 しかし、この時期の基通は、そのような趣味は無く絶対的な権勢を有していた平家の庇護のもとにあり、後白河院の寵愛に頼る必要が無かったので後白河院からの申し出を拒絶したと考えられます。 

 自分の好みに合っていて肉体関係を持ちたいと思っていた相手からの拒絶が後白河院を激高させ、松殿基房と結びついて、基通に対する仕打ちに繋がった一面があったのではないかと私は想像しています。