NHKの大河ドラマ「平清盛」も、いよいよ明日で最終回ですが、最近、五味文彦氏の著書「院政期社会の研究」を知り、そこで叙述されている後白河院をめぐる男色関係を興味深く読ませてもらいました。 

 大河ドラマでは、平治の乱の張本人、藤原信頼と後白河院の関係も、それが男色関係ではないような描き方をしていましたが、重要な登場人物で鹿ケ谷事件の首謀者であった藤原成親も後白河院と男色関係にあったと考えられるようです。

 さらに平重盛の子で、清盛の孫にあたる資盛、清盛によって治承三年(1179)に関白に任ぜられた近衛基通も後白河院の寵を得ていた事が分かり、九条兼実の日記「玉葉」に、都落ちした資盛は、その後も思いを断てず、後白河院の許に「事別君、悲歎無限、今一度帰華洛、再欲拝龍顔」という書状を送ってきたという記述がある事も紹介されています。

 基通の場合は、平家との繋がりから都落ちに同行すると見られていたにもかかわらず都に留まり、後白河院と叡山行きを共にした事が紹介され、「玉葉」の記述から基通は後白河院との男色関係をたよりに都に踏み留まったと書かれています。 

 さらに五味氏は、後白河院と重盛も男色関係にあったのではないかと推理されています。 

 そして、神護寺の仙洞院に後白河院の御影と共に安置された似絵の六人が選ばれた理由として、院の追善供養のため、生前特に関係の深かった人物の似絵が描かれ、それが男色関係であった事を示唆されています。 

 源頼朝については、確証はないと断っておられますが、当時13歳の頼朝が上西門院蔵人となっており、後白河院と上西門院の関係からみれば、後白河院が蔵人の頼朝に目をつけたとみても不思議ではないと述べられています。 

 院政時代、藤原頼長の男色関係は有名ですが、実は後白河院が、その上をいく華麗な男色関係を繰り広げていた事が描かれたドラマであれば、NHKで大河ドラマとして放映する事が可能であったかどうかは別にして話題性のある作品になったような気がしました。