古都の寺院の隠された真実を求めて-201207052101000.jpg
「大和寺集記」西大寺の記事、「転形期の歴史叙述」収載の大橋直義氏の翻刻より

 さらに、原氏は「諸寺建立次第」「諸寺縁起集」(護国寺本)「諸寺縁起集」(菅家本)の山田寺の記事を示しておられますが、それらが元は同じ史料から派生したものであると認められながら、「諸寺建立次第」の記事に五重塔の記載が抜けている事を指摘して、その記事が書かれた時期を鎌倉時代と想定して論述され、結論として「結局、いつの時点を想定しても疑問は残るのである」と書かれているのも、「大和寺集記」を読んでおられるのなら不可解な話です。 
 「諸寺建立次第」「護国寺本諸寺縁起集」「菅家本諸寺縁起集」には残されていませんが、その元の史料の原型を一番良く伝えている「大和寺集記」には、西大寺の記事が、ほぼ全文残されていて、その内容から大江親通が最初、南都を巡礼した時(1106)よりも前の状況を示していると考えられます。 

 mixiの「南都七大寺コミュニティ」では、康平七年(1064)の巡礼記の逸文だと推理させてもらいましたが、その頃の記録と考えて矛盾はないと思います。 

 その記事の山田寺講堂の条に、「薬師丈六鋳仏」と記載されていますが、原氏の論説のもう一つの主旨は、この像が当初、釈迦如来として造られたという事にあります。
 そういう説を唱えられるなら、なぜ当初は釈迦如来であったものが少なくとも11世紀半ばには薬師如来と呼ばれていたかの理由を明らかにされないといけないと思います。