古都の寺院の隠された真実を求めて-201207052054000.jpg
「大和寺集記」山田寺の記事(部分)「転形期の歴史叙述」収載の大橋直義氏の翻刻より

 この論文での原氏の論説の主旨は二つありますが、その一つは従来の講堂安置説に疑問を呈し金堂に安置されていたと考える事の妥当性の主張だと思います。

 原氏の論考によると「上宮聖徳法王帝説」裏書に戊寅年(678)に鋳られたと記載がある「丈六仏像」が当初から講堂に安置された事を最初に指摘されたのは足立康氏だったようで、その根拠として挙げられた点を紹介され、それに反論する形で論述を進めておられます。 

 足立氏の論考は「丈六仏像」が鋳造された時点で、すでに金堂には別の仏像があり「丈六仏像」が金堂に安置された可能性の低いことを指摘されたものであったようですが、もっともな解釈だと私は思います。

 原氏は「大和寺集記」の山田寺の記事にも目を通されているようですが、写真を載せさせてもらった記事には、上の「荼院」は意味不明ですが金堂に「半丈六の中尊」と左右に金銀の三尺の立像が安置されていた事が明記されています。

 山田寺の金堂の大きさは発掘調査で法隆寺の金堂とほぼ同じ大きさである事が明らかになっていますが、そこに安置するには丈六の仏像は大きすぎて無理ではないかと考えています。
 半丈六の仏像が当初から中尊として安置されていたと考えるのが妥当ではないかなと僕は思います。 

 そして「荼院」の解釈ですが以前、mixiの「南都七大寺コミュニティ」で「大和寺集記」の内容を紹介した時に書かせてもらいましたが、阿と弥が上下にくっついて崩れた字が「荼」になり、「院」が陀の写し間違いだとすれば阿弥陀となり、蘇我倉山田石川麻呂が蘇我宗家の菩提を弔うために造立した可能性と石川麻呂の名誉が回復されて山田寺の工事が再開した時に石川麻呂の菩提を弔うために造立された可能性があると思います。