古都の寺院の隠された真実を求めて-201207052109000.jpg
銅造仏頭(月刊ならら平成24年7月号より)

 今年5月に発行された毎日新聞社発行の「佛教芸術322号」に原浩史氏による「興福寺蔵旧山田寺仏頭再考」と題した論文が載せられているのを拝読しましたが、その内容については色々疑問を感じてしまいました。 
 「佛教芸術」と言えば、それなりの権威のある雑誌ですから、史料を自分の都合の良いように解釈して従来の説を否定するような論考には首を傾げざるを得ませんでした。 

 その論考の要旨を紹介して、その矛盾点を指摘させてもらいたいと思いますが、まず従来の説にしたがって月刊ならら平成24年号の「御仏は語る51」に書かれた小西正文氏の解説を抜粋して紹介させてもらいます。 

 興福寺は1300年にわたる歴史の中で度重なる罹災と復興をくり返した。なかでも治承四年(1180)12月の大火は平重衡の南都進攻によるもので、東大寺や興福寺などが炎上した。 
 興福寺は一山焼亡という事態に立ち至ったが、その復興は直ちに開始され、東金堂は元暦二年(1185)に再建された。ところが安置仏の造立が遅れたために業を煮やした堂衆たちが文治三年(1187)3月、桜井の山田寺に押しかけ、講堂の金銅薬師三尊を奪取して東金堂の本尊とした。