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6月7日讀賣新聞夕刊記事より

 一昨日の讀賣新聞夕刊に上記タイトルで、奈良時代、正倉院に納められた大量の武器が、災厄が天皇や国家に及ばないよう祈念する密教の儀式で使われたのではないか、という新説を、元宮内庁正倉院事務所長の米田雄介・神戸女子大名誉教授が発表された事が紹介されていました。 

 とても興味深い内容だと思い読ませてもらいましたので記事内容を紹介させてもらいます。 


 正倉院宝物の中心を成すのは聖武天皇の死後、756年に光明皇后が東大寺大仏に献納した遺愛品だ。目録「国家珍宝帳」には大刀百口、弓百帳、箭(矢)百具、甲百領が献納された、と記されている。 
 ただし、藤原仲麻呂(764年)の際に朝廷側が大半を持ち出したとされ、現在は金銀鈿荘唐大刀など、一部しか残っていない。これらの武器に関しては「聖武天皇が儀式などに使った」「天皇を護衛する儀仗兵が使った」など諸説があるが、なぜ100ずつ納められたのかという理由については、明確な手がかりは見つかっていない。 
 米田名誉教授が専門誌「日本歴史」に発表した論文の中で着目したのが「大元帥法」という密教の儀式。平安時代に唐から伝わったとされ、一部の寺で昭和初期にも行われていた。 
 この儀式について記した平安時代の文献には、仁明天皇(810~850)が剣や弓をちょうど100セットずつ作らせて儀式の場に並べた、との記述がある。 
 まだ大元帥法で使用する経典の名称を記した正倉院文書が存在することなどから、米田名誉教授は「聖武天皇の病や戦乱などの社会的不安を背景に儀式を行い、そこで使った武器を納めたのでは」と考察している。 
 事実ならば空海が体系的な密教を日本に伝える前に密教儀式が国家中枢で行われていたことになる。仏教の歴史に詳しい永村真・日本女子大教授は、「奈良時代以前にも儀式は断片的に日本に伝わっており、大元帥法が行われた可能性もあり得る」と指摘する。 
 確実な文献などが見つかっていないため、今のところ状況証拠に頼らざるを得ず、「あくまで一つの可能性としての問題提起」(米田名誉教授)の段階なのも事実だが、謎の多い宝物の由来を巡る議論に一石を投じた事は間違いない。 


 この記事の掲載される前日、秋篠寺を訪ねて大元帥明王立像を拝観させてもらいましたが、その造像の根拠になったと考えられる「大元帥法」と正倉院宝物の意外な接点を興味深く読ませてもらいました。
 今度、図書館に行った時には「日本歴史」という雑誌を閲覧して、この論文を読んでみたいと思います。
 また、この論文の内容に注目し簡潔に纏めて紹介された記者の清岡央氏の着眼点が素晴らしいと感心しました。