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梵天像(部分)「興福寺国宝展」図録より
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梵天像「奈良六大寺大観」より
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興福寺曼荼羅図の梵天像
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帝釈天像(部分)「興福寺国宝展」図録より
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帝釈天像「奈良六大寺大観」より
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興福寺曼荼羅図の帝釈天像

 現在、興福寺国宝館で運慶作の釈迦如来像仏頭の左右に安置されている梵天立像、帝釈天立像は、「奈良六大寺大観」の解説で京都国立博物館本「興福寺曼荼羅図」西金堂のそれと像容がほぼ一致する事が注目されると述べられていますが、この二躯の像は享保二年(1717)の火災で西金堂が焼失した時に救出された像だと私も考えています。

 しかし、梵天像の手の印相は「興福寺曼荼羅図」と一致しますが、帝釈天像は手の印相が異なります。

 「奈良六大寺大観」の解説によると両像とも手の部分の後補は無さそうで、また帝釈天像は甲、袈裟を着けていますが、「興福寺曼荼羅図」の帝釈天像は礼服と袈裟で、明らかに別の像と考えて良さそうです。

 「興福寺曼荼羅図」は絵画的表現のため、宝冠等の表現は実際の彫刻と異なっていると思いますが、帝釈天像の相違は大きすぎるような気がしています。 

 「興福寺濫觴記」「興福寺由来記」には明記されていませんが、この二躯の像が一具のものなら、「興福寺曼荼羅図」に基づいて鎌倉時代に再興された像では無くて良く似た像容の像が他から西金堂に移入されたと考えた方が良いのではないかと思っています。