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「興福寺大和国雑役免坪付帳」部分(「平安遺文」より)
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「興福寺大和国雑役免坪付帳」部分(「平安遺文」より)
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長安寺町(ピンクの部分、東側の白い部分に菅田神社)
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額安寺と平端駅の位置関係

 3月24日に書かせてもらった「3月14日 なら仏像館を観覧して推理したこと」で、現在、なら仏像館の入口左右に展示されている多聞天立像と広目天立像を含む興福寺伝来の一具の四天王像は、「興福寺由来記」の記述から、鎌倉時代に長安寺という寺から興福寺の西金堂に移入されたものだと推理しました。 

 長安寺という寺については延久二年(1070)に作成された「興福寺大和国雑役免坪付帳」という書類に記載がある事が分かったので、「平安遺文」所載の記事を確認しましたが、一夜松北庄という所に三段の畠を所有していた事が載せられていました。 

 一夜松北庄をネットで検索すると大和郡山市八条町にある菅田神社の北側が一夜松北庄と呼ばれていた事と、この神社が近世まで天満天神を祀り、八条村、菅田村、長安寺村の氏神であった事が載せられていました。 

 地図で確認すると菅田神社の西側、近鉄平端駅の東と西南に広がる地域が長安寺町と名付けられている事が分かり、昔の長安寺村の地域と完全に一致するかは分かりませんが、その辺りに長安寺が存在したと考えて間違いなさそうです。 
 長安寺が延久二年(1070)に存在していた事は確認出来ますが、いつ創建され、また、いつ廃絶したかは不明です。

 ここで注目したいのは、長安寺があったと思われる平端駅近辺と額安寺は直線距離にして1キロ位の、ごく近い場所にあった事です。 

 長安寺の四天王像が西金堂に移入された時期は不明ですが、もしかしたら額安寺の十大弟子像と八部衆像が西金堂に移入された貞永元年(1232)に一緒に移入された可能性があるのではと考えています。