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旧西金堂天燈鬼立像(絵ハガキより)
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旧西金堂竜燈鬼立像(絵ハガキより)

 国宝館の展示で、もう一つ注目したのは西金堂に伝来した天燈鬼・竜燈鬼立像です。 

 この二躰の像については「興福寺―美術史研究のあゆみ―」の第十章「興福寺の鎌倉彫刻」に小野佳代氏による研究史を踏まえた解説が載せられていますが、竜燈鬼立像については、享保二年(1717)の大火の際、この二躰が救い出された事が確認出来る史料に建保三年(1215)に大法師聖勝を願主として運慶の三男、法橋康弁が作ったという記載が有る事を紹介されています。

 天燈鬼立像の作者については諸説が有り、小野氏は康弁作と断定することは難しく、現状では康弁親近の仏師の作と考えておくことにしたいと述べられています。 

 この二躰の像が作られた背景についての考察は昨年「佛教大学大学院紀要 文学研究科篇第39号」に発表された上村拓哉氏の「興福寺天燈鬼・竜燈鬼像について」という論文が有りますが、この二躰は治承四年(1180)の兵火以前には存在していなかったので私は最初、この像が作られたのは、建保三年(1215)の時点で西金堂には四天王像を再興する財力が無かったので、その代わりに作られたと考えていました。 

 そのように考えた根拠の一つは十大弟子・八部衆像の額安寺移入説を唱える「興福寺濫觴記」という記録の西金堂の条に四天王像の記載が無かったからでした。

 しかしながら福山敏男氏の「日本建築史の研究」に収められた「興福寺西金堂遺物の伝来」という論文に引用された享保二年の火災で西金堂から救い出された仏像の記録には四天王像が含まれていて、享保二年(1717)の火災前には西金堂には天燈鬼、竜燈鬼の二躰と四天王像四躰が安置されていた事が分かります。 

 そこで、天燈鬼、竜燈鬼の二躰が作られた後、四天王像も再興されたのかなと思い、色々調べると奈良県立図書情報館所蔵の「興福寺由来記」という書物に思いがけない記載が有りました。