少し間があいてしまいましたが、続きを書かせてもらいます。 

 小林氏は注意すべき点として西金堂において厳宗房が身を棄てて救い出した十一面観音像と、足立氏が「玉葉」に記載されている仏像以外にも救われたものがある根拠として挙げられた海龍王寺から西金堂に移入されていた銀釈迦立像について触れられています。 

 十一面観音像については「興福寺流記」の記述を紹介されて、西金堂の後ろにあった松院の小房に居住していた厳宗が蔵西と協力して、全く身命を賭して観音像を救出し、これを己が小房に移した所が、幸いにして、その小房が焼失を免れたので、像も無事であったと記されている事を紹介し、この場合、もちろん、その厳宗等の努力は多としなければならないが、又その避難場所の如何は救出の結果に極めて重要な関係があったのを見逃す事は出来ない。即ち寺中寺外共に、ほとんど堂舎らしきものの全滅した際に、僅かに焼け残った数宇の小房の一つが、たまたま、その避難場所に選ばれた事が幸いした事を述べられ、これを十大弟子などの多数の像の場合に考えると、たとえ何人かが、これら十八躯の像を全部、無事に西金堂から搬出しえたとしても、その避難場所は自ずから問題になると述べられています。 

 次に海龍王寺から西金堂に移入されていた銀釈迦立像について、足立氏が室町時代の「七大寺巡礼記」の記載をもとに救出された像として挙げられた事に対し、「尊像之録」の記載を紹介され、当初は「六尺三寸」の像であったのが、享保二年(1717)以前の火災に火中して、胸上から首にかけて損失し、その高さが「五尺」になっているのを知る事が出来ると述べられ、嘉暦二年(1327)の火災で西金堂が焼失した時には、安置仏の大部分が救出されている事実から、この火災は承四年(1180)の兵火と考えられると述べられています。


 小林氏は、以上、論述した事から、天平六年(734)に造顕された在来の像が治承四年の兵火で焼失したと考える事は不当ではなく、少なくとも享保二年(1717)の火災まで、ほとんど十八躯共に完備していた現存像か、前後無比とも云うべき治承の大災害を免れたとするよりも、その罹災の可能性が大きい。もっとも、その二具の中、辛うじて数躯を救出している様な場合には自ずから解釈も異なって来ようが、ほとんど大した破損もなく二具共に、ほぼ完全に残存している事は確かに常識的に不審であると述べられています。 

 そして、ここに至って、多少なりとも、その罹災を裏書するのが「額安寺古像」を唱える七大寺巡礼記以下の興福寺文書であるが、七大寺巡礼記以下の「額安寺古像」説を唱える史料が比較的後世の寺記類のみであるから、「額安寺古像」説は常に治承罹災説に従属すべきであり、今、我々の手元にある史料は、その比較的後世の寺記類だけに止まるのであるから、結局その解釈如何が結論を導く事に注意しなければならないと述べられています。