小林氏は「玉葉」の文治五年(1189)8月の西金堂本尊釈迦像の白木仏が西金堂に安置されていた記事を紹介し、その頃には西金堂の堂宇の造営は終わっていたと考えられ、さらに「興福寺流記」の元暦元年(1184)12月に治承の兵火で西金堂から救い出された十一面観音像が西金堂に戻された記事を紹介されて、この頃には仏像を安置出来る程度に造営が進んでいたと思われると述べておられます。

 しかし、仏像造顕については、文治五年(1189)頃には本尊像さえ未だに薄を置かれずに白木仏のままであった事を指摘され、東金堂について「玉葉」元暦二年(1185)6月の記事に、興福寺から東金堂は寺家の沙汰によって造営を終わったが、造仏の資力がないから、公卿等に勧進したい旨の申し出が有った事が記されている事を紹介され、その勧進がうまく行かなかったらしく、文治三年(1187)3月に、東金堂衆が金銅丈六薬師三尊像を山田寺から奪い取って東金堂に安置した事が「玉葉」に見えている事を紹介され、この事実は当時、興福寺が南都に大勢力を持って、経済的にも相当豊かであったに拘らず、治承の災害を再興するのには流石に相当の苦心をした事がうかがわれるもので、宣旨による氏長者等の沙汰になる堂舎の造営は別として、一時に多額の出費を要した堂宇並びに仏像等の造作には、寺家の力だけでは不足を来して、かかる苦肉の策をとったものと思われると述べておられます。

 そして西金堂については、その本尊像のみは寺家の独力で造顕されていた事が前述の「玉葉」の記載で知られるが、それとても白木仏の状態で放置されており、その他の仏像については脇侍薬王薬上両菩薩像が、それから十数年後の建仁二年(1202)に至って漸く造顕された事が、現在金堂に安置されている「西金堂脇士」の薬王薬上菩薩の銘記によって知られ、即ち、本尊三尊像の造顕でさえ、かくの如きであったのだから、その他の十大弟子及び八部衆等の随従像が、決して建仁以前に易々と造られていなかった事が考えられると述べられています。