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西金堂全景
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本尊の南後方に安置された阿修羅像と迦楼羅像
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本尊の南に安置された五部浄像
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本尊の南前方に安置された沙羯羅像
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本尊の北後方に安置された八部衆像と見られる二躰
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本尊北に安置された八部衆像と見られる一躰
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本尊北前方に安置された八部衆像と見られる一躰


 像名は今、興福寺国宝館に安置されている八部衆像と比較するため、その名称に従って分類させてもらいました。 

 2月15日の記事で、西金堂の変遷も整理させてもらいましたが、西金堂は永承元年(1046)の大火で焼失しましたが、西金堂安置の仏像は全て救い出された記録があり、「興福寺曼荼羅図」に描かれている西金堂の八部衆像は天平六年(734)に光明皇后により西金堂が建立された時に造られたものと考えられます。 

 阿修羅像と沙羯羅像については水野あや氏が「興福寺の脱活乾漆造八部衆像について」という論文で考察された造立当時の姿を以前、紹介させてもらいましたが、それとは明らかに異なる事が分かり、現存の像のどれとも合致しない像があります。

 ここでは、まず、養老五年(721)に造られた中金堂の弥勒浄土像の中の八部衆像と、天平六年(734)に造られた西金堂の八部衆像の像容が大きく異なる事に注目したいと思います。 

 その理由として考えられるのは、森下和貴子氏が、「藤原寺考―律師道慈をめぐって―」という論文で考察された、養老二年(718)に唐から帰朝した道慈が藤原寺(興福寺)に止住し、西金堂の造営に直接関与した可能性が考えられると思います。 

 唐に滞在中に新しい像容の八部衆像を見る機会があった道慈の進言で、中金堂にあった八部衆像とは全く像容が異なるものが造られたと考えられます。 

 森下氏は天平元年(729)に律師に就任し、僧綱での地位を獲得した道慈は西金堂が完成する天平六年(734)1月までは興福寺にいたと考え、天平九年(737)には大安寺にいた事が知られているので、移籍は、その間に行われたと考えておられます。 

 大安寺に止住した道慈が、その造営を任された事も知られていますが、天平十九年の「大安寺伽藍縁起并流記資財帳」によると、天平十四年(742)に、すでにあった乾漆造りの丈六仏像と四天王像に、菩薩像二躯、羅漢像十躯、八部像一具が追加安置されていますが、これらは、いずれも乾漆像(即)でした。


 森下氏は、西金堂の釈迦集会像と大安寺金堂の諸仏は、釈迦を中心に脇侍菩薩、四天王、十大弟子、八部衆がとりまくという群像構成で、ほぼ一致するほか、乾漆づくりという技法においても一致すると述べられ、また額田氏の出自である道慈の氏寺、額田部寺(額安寺)の八部衆像が、平安時代の一時期、興福寺に移安された事を紹介され、これらにみえる共通性、相関性は、何よりも道慈という一人の僧侶を軸にして考える時、もっとも容易に理解されようと述べられています。