中金堂西の間全景
本尊の西側に安置された八部衆像と見られる四躰
本尊の東側に安置された八部衆像と見られる四躰
2月16日に書かせてもらった記事で、史料からは、その成立年代に幅が有りますが「興福寺曼荼羅図」原本の成立年代を興福寺と春日社の関係から、この二つは一体化したものである事が主張されて「神木動座」(春日神木を入洛させての強訴)が目的を遂げた寛治七年(1093)の可能性が一番高いと推理させてもらいました。
この前年には北円堂と食堂の供養が行われ伽藍の再興が完成しているので、その事を記念し、再興伽藍の安置仏像の状態を詳細に記録して後世に又、伽藍が焼失し安置仏像が失われた時に再興の指針とする意味合いもあったと私は想像しています。
2月7日に中金堂西の間の八部衆像の変遷についても書かせてもらいましたが、養老五年(721)に弥勒浄土の像を構成する一群として造られた、これらの像は康平三年(1060)に中金堂が焼失した時には失われ、治暦三年(1067)に再興されたと考えられます。
したがって「興福寺曼荼羅図」に描かれている八部衆像は、治暦三年(1067)の再興像と考えられますが、八部衆像については西金堂安置の八部衆像との違いが認識されていたため僧侶が、その像容を記憶していた可能性が高く、養老五年(821)に造られた当初の像をかなり正確に再現したものだったと考えています。