昨年、中央公論美術出版から発行された「奈良時代の塑造神将像」(奈良国立博物館編集)を先日、奈良県立図書情報館で見つけ、読ませてもらいましたが、その中に稲本泰生氏の「東大寺前身寺院における塑造神将像の造立」という論文が載せられていました
読ませてもらい一番ビックリしたのが興福寺の八部衆と十大弟子像を天平6年(634)の基準作と断定した論述があった事です。
その部分を引用させてもらいます。
第二は塑造神将造と、天平6年(734)の基準作である興福寺西金堂諸像との関係である。かたや塑造、かたや脱活乾漆と素材、技法を異にし、また群像としてまとめて配置される八部衆や十大弟子像に対し、塑造神将像が周囲に応分の空間を与えられていた点は考慮しなければなるまいが、塑造神将像の方がより成熟した写実表現を達成し、後発の様式を示していることは認めてよいだろう。
前に額安寺の紹介で、大橋一章氏編著の「論争奈良美術」(1994年、平凡社発行)に収録された小泉賢子氏の「興福寺釈迦十大弟子と天龍八部衆像の伝来―額安寺移入像か西金堂当初像か―」という論文を紹介させてもらいましたが、そこで小泉氏が述べられているように、それが額安寺像だと載せられている江戸時代の書物「興福寺濫觴記」が近世史料で信憑性がもてないとしても、西金堂当初像であるはずの十大弟子・八部衆が「額安寺古像」と伝えられるに至った経緯を説明できない以上、これを西金堂当初像の治承四年焼失の結果として捉える小林剛氏の説を否定する事は難しいと私も思います。
また色々な状況証拠から、現存の十大弟子、八部衆像が額安寺から移入されたものであると推測出来ます。
玉葉の治承五年正月十六日の記載からは、西金堂の安置仏の中で唯一助け出されたのは霊験仏として高名だった十一面観音で、それも本師厳宗という僧侶が「捨身入堂中 自炎中奉懐出」という状況だった事が分かり、十八躰の仏像を救い出せるような悠長な状態で無かった事は明らかです。
また「興福寺濫觴記」は前にも紹介させてもらいましたが鎌倉時代に再造された西金堂の本尊が運慶作であるという近年、鎌倉時代の書物で判明した事実も書かれていて、その当時、現存した古い記録に基づいて書かれた事が推測出来ます。
西金堂の十一面観音像についても「流記曰 治承四年十二月廿八日焼失之剋 大十師厳宗千勝房 捨身自炎中奉取出」との記載が有ります。
また「興福寺濫觴記」に「額安寺古像」と記載があるのは十大弟子、八部衆だけではなく、西金堂に安置されていた閻魔王も額安寺古像であると記されています。
「興福寺濫觴記」には、十大弟子、八部衆像の記載の後に「右十大弟子十躯八部衆八躯 貞永元年壬辰十二月十七日修復」と記されていますが、貞永元年(1232)頃、十大弟子、八部衆、閻魔王が額安寺から興福寺に移入され、彩色の痛みが激しかった十大弟子、八部衆像の彩色の修復がされた事を記した古い記録が「興福寺濫觴記」が書かれた時には存在していたと推測出来ます。
興福寺が現存の十大弟子、八部衆像を光明皇后ゆかりの西金堂の創建当初の像だと宣伝したい気持ちは分かりますし、仏像の由緒を高める事は素晴らしいと思いますが、それは信仰の分野の話であり、学術の分野で、これらの像を西金堂創建時の天平六年(734) の基準作と考えて、他の仏像の年代を推理する事は仏像の歴史を歪める危険な行為だと思います。