聖徳太子絵伝(1069)に描かれた法興寺(中宮寺)
同上、法興寺の門部分
同上、法興寺の講堂基壇部分
東野氏の資料の二枚目の上段には、聖徳太子絵伝(法隆寺献納宝物、東博、延久元年(1069))の法興寺の部分のモノクロの写真が載せられていますが、基調講演ではカラーの写真の拡大したものを使われて色々と興味深い説明をされました。
まず、「聖徳太子絵伝」は延久元年(1069)に作られたものですが、東野氏の研究によると当初の部分は、ほとんど残っていないで後世の補筆がほとんどであるとの事でした。
そして門、回廊の塀、講堂についての指摘が有りましたが、まず門は今の絵伝では瓦葺きになっていますが、その下の茶色の部分が見えるので当初の絵では茅葺きであったと考えられるようです。
また回廊の塀も今の絵伝では三方は瓦葺きの立派なものですが、後方の塀はそうではなく発掘調査から考えても四方とも簡素な土塀だったと考えられるようです。
さらに今の絵伝では金堂の後ろに講堂らしき建物の屋根が描かれ、その基壇らしきものも描かれていますが、その線が後方の塀と重なるため、これも当初の絵伝には無くて後に書き加えられたものだろうという見解を示されました。
東野氏は、この時の資料に取り上げておられませんが「大和寺集記」に載せられている康平七年(1064)の巡礼記の逸文と思われるものに中宮寺についての下記の記載があります。
中寺 又中宮寺 法名法興寺
上宮太子建 可尋
金堂尺迦 三尺許 頭光中書七躰仏
南有三重塔
法隆寺東四五丁許有此寺
東野氏が「大和寺集記」をご覧になっておられるかどうか分かりませんが、もしご覧になっておられたら、その記載と「聖徳太子絵伝」との比較による考察をお聞きしたいなと思いました。