清海曼荼羅図(室町時代、成覚寺蔵)「日本浄土曼荼羅の研究」より
超昇寺見取図(「超昇寺再考」より)
昨日は、西大寺をお詣りした後、平城宮跡の北側に、かってあった寺、超昇寺の跡地と、ゆかりの場所をまず散策しました。
超昇寺については、「大和寺集記」に載せられている平安時代、康平七年(1064)の巡礼記の逸文と考えられるものに記載があります。
その内容を僕なりに節略して紹介させてもらうと下記のようになります。
超昇寺
平城天皇の第三皇子で弘法大師の付法御弟子真如親王之を建立す。
本堂 金剛界五仏 真如親王の本願なり。
北に法花三昧堂有り。(その中に)浄土曼荼羅有り。その下に長徳二年十月廿二日の日付の入った銘文有り。
永延末に法花三昧を始め、正暦初に七ケ日念仏を始める。
清海上人は常陸国の人で興福寺住僧云々。
「国史大辞典第九巻」の超昇寺についての解説を節略すると下記のようになります。
奈良市佐紀町にあった寺。南都十五大寺の一つ。平城天皇の皇子真如(高丘親王)の創建といわれる。
貞観二年(860)同親王は平城京中の水田五十五町余を不退寺と超昇寺に下賜。同七年には親王に真言密教を授けられた壱演が座主となった。
本堂に金剛界五仏、阿弥陀堂に本願御影が祀られた。
平安時代の高僧清海がこの寺に住んだが、彼は山城木幡で京都清水寺の観音の化身である翁から曼陀羅を授けられたという。いわゆる「清海曼陀羅」がこれで、超昇寺の法花三昧堂に置かれていたらしい。
長禄三年(1459)塔坊から出火。天正六年(1578)にも井戸若狭守の兵火で焼失した。
江戸時代前期まで一宇を残し、五代将軍徳川綱吉の信任厚かった護持院隆光は、宝永六年(1709)超昇寺に隠退している。
明治十年(1877)ごろ廃滅。
「国史大辞典」が参考文献に挙げている「平城宮跡照映‐溝辺文和記念文集‐」に収められている「超昇寺再考」という昭和42年に発表された論文が詳細で参考になりましたが、その論文に、「超昇寺見取図」が載せられていたので、それを参考にして散策をスタートさせました。