昨日、奈良県立図書情報館で、株式会社ぎょうせい発行の「日本美を語る第二巻 千古に輝く西の京」に会津八一氏が西大寺の邪鬼についてご自身が詠まれた歌の解説をされた文章を見つけました。

 その中で西大寺の四天王像の変遷については下記のように述べられていて、会津八一氏が三躰の天部の再鋳時期を平安時代とする説に疑いをもっておられなかったことが分かります。

 私が調べた範囲では、昭和41年に発行された佛教藝術62号の西大寺特集が、西大寺の貞観二年罹災説を無視したものの最初だと思いますが、どなたかが『東大寺要録』の貞観三年の大仏供養会に西大寺が参加していない記録に注目されて、貞観二年の罹災説を補足されていれば、今のような諸説入り乱れて混乱することにはならなかったように思います。
 多聞天の天部については会津八一氏は文亀二年の火災で壊滅して、その後に木彫で補われたと考えておられますが、前に多聞天の再興時期について述べさせていただいたように私は、文亀二年の火災では四躰とも救出されていると思いますので、それ以前に、恐らく地震の時に損壊して木彫で補われたと考えています。



会津八一『西大寺の邪鬼』より 

しかるに、その後、平安時代に入って、貞観二年には、火災のために堂宇は焼け落ち、持国、広目、増長の三天が失われた。そしてこの三体は、やがて改鋳されたが、室町時代の文亀二年には、再び火災に遇ひ、この度は、さきに再鋳した三体は免れたが、これまで天平原作のままでゐた多聞天が、左脚の一部だけを残して、壊滅してしまった。この一体は後に補はれたが、それは木彫であった。寺運の衰微が、おのづからその間にも窺はれる。そしてこの不揃の四天王を、今この寺の四王堂の中に見るのである。