前に触れさせてもらいましたが、創建当時の西大寺の金堂院(薬師金堂、弥勒金堂の一画)の屋根が、緑釉瓦で葺かれていたと想像出来ることや、当初の東西両塔が八角七重塔として計画されていた事など、創建当時の西大寺は、唐の影響を受けて最先端の様式を取り入れた寺であったと考えられますが、それは法要の時などに寺で演奏された音楽についても言える事だと思います。

二年ほど前に、西大寺の旧境内からイスラム陶器の破片が出土して話題になりましたが、その時に出土した墨書土器の中に、「皇甫東朝(こうほといちょう)」と墨書されたものが発見されました。 
皇甫東朝は、天平八年(736)に帰国した遣唐使の船に同乗して来日した唐楽の演奏家です。 
天平神護二年(766)十月の法華寺舎利会に唐楽を奉って従五位下を受け、神護景雲元年(767)三月に「雅楽員外助兼花苑司正」に任じられています。 
これらの事から、来日後に唐楽の演奏と雅楽寮での教習に関係していたことが示されると、南谷美保氏は、その論文「『続日本紀』に見る唐楽演奏の記録と礼楽思想の受容について」で述べられています。 

創建当時の西大寺に唐楽に関する楽器、衣服などが完備されていた事は「西大寺資財流記帳」で知る事が出来、この土器の出土によって皇甫東朝が西大寺にいて、そこで唐楽の指導にあたっていたと想像出来ます。

西大寺の「資財流記帳」に記載されている唐楽と伎楽に関する楽器、衣服などは貞観二年(860 )の大火災で失われ、翌貞観三年(861)に東大寺で行われた大仏の首の修復を祝う法会で西大寺の唐楽と伎楽が演奏される事はありませんでした。