宇佐美龍夫氏編「日本の歴史地震史料」拾遺三では、斉衡二年5月5日(855年6月26日)の地震で東大寺大仏の首が落ちた事を平成9年に岩波書店から発行された「東大寺大仏の研究解説篇」の記事を転載して紹介しておられます。 
その内容を僕なりに、かいつまんで紹介させてもらいます。 


『東大寺雑集録』では、文徳天皇の斉衡二年(855)5月5日の大地震で大仏の首が落ち、6月になり朝廷は検使を遣わしたとある。 
また『日本文徳天皇実録』にも5月23日に大仏仏頭落下の報告を受けた由の記録が有り、『東大寺要録』も5月に落下の由を奏し6月に検使が寺に派遣されたと記している。 
そして9月には真如親王が大仏司検校に任ぜられ、八幡宮に修理のことを祈っている。 
『七大寺巡礼私記』にも、これと同内容の記事が引用されている。 
仏頭が傾いていたにもかかわらず、それに対する策がなされず、地震で首が落下したのだから、落下の途中で所々に傷がついたであろうし、切断された折れ口には、かなりの歪みが生じたであろう。 
故に、この首をそのまま引き上げて、すぐ鋳継ぐわけにはいかないはずである。
その間の事情を示す文献がないので、われわれは単に想像を働かせるにすぎないのだが、その修理は、かなり困難なものであったと思われる。 
『東大寺要録』によると、大破していて、修理しなければならないところが多く、ほとんど新しく造るのと同じくらいであるといっているから、相当の破損変形が考えられる。 
斉衡二年5月に首が落ち、貞観三年(861)3月が完全に修理されての開眼であるから、約6ヶ年を要したことになる。 
造東大寺大仏長官が任命されたのが天安二年(858)4月であるから、それから数えると三年となる。