最後に、江戸時代には定説だった貞観二年の炎上説が、なぜ消えてしまったか資料を調べて判った事と私の推理を書かせていただきます。
昭和40年(1965)に長谷川誠氏の書かれた「西大寺」という中央公論美術出版発行のガイドブックでは、まだ貞観二年と文亀二年〈1502〉の二度、大きな火災が有ったと記述されていました。
ところが、翌昭和41年(1966)に刊行された「佛教藝術」の西大寺特集号では、理由も述べずに貞観二年の火災は無視されています。
そして昭和45年に刊行された西大寺が編集した「西大寺の文化」でも貞観二年の火災は無視されていて、永祚二年(990)の京都の西寺の焼失を西大寺の事だと誤って載せています。
昭和54年に刊行された「南都七大寺の歴史と年表」では、その年表の貞観二年の条に西大寺炎上の事を載せておられますが、西大寺の歴史を述べた部分の脚注では貞観二年火災説について、何によったものか明らかではなく、信頼すべきものとは思われないと述べられています。
江戸時代、西大寺の貞観二年の火災は、文亀二年の火災の前に、それよりも大きな火災が有ったと認めなければ、西大寺の創建当時の建物が悉く失われ、四天王の邪鬼がひどい損傷を受けている事の説明がつかないので定説化していたと思います。
前述の長谷川氏の著作も、それを踏まえて二度の大火を認める記述をされたと思います。
それが昭和40年代に入り、急に無視されるようになった一番の理由は、貞観二年の西大寺の火災が「日本三代実録」に記載されていなかった事が大きいと思います。
「日本三代実録」は朝廷の作成した正式な国史だから、貞観二年に西大寺で大火災が有ったのなら載るはずだという決めつけが有ったように感じます。
その結果、西大寺関係の書籍で貞観二年の火災を載せるものは少数になり、その結果として、西大寺の変遷や現存する四天王像の状態を述べる時に無理が生じるようになったと考えています。
〈追記〉
貞観二年(860)の火災について触れた本が最近、二冊出版されている事が分かりました。
吉川弘文館編集部編「奈良古社寺辞典」(2009年10月発行)と本渡章著「奈良名所むかし案内」(2007年9月発行、創元社)です。
前者では
「平安時代に入ると、承和十三年(846)には講堂、貞観二年(860)には主要堂舎が焼失し、創建当初の面影を失い衰微した。」
後者では
「平安時代に入ると、承和十三年(846)、貞観二年(860)の二度にわたる火災で、主な堂舎が焼失し、創建時の面影は消えた。」
と述べられています。
佐伯有清氏は、先にあげた著書で「供養大仏会の影と暗」という項目で、華麗で優雅な式典の裏で、厳戒態勢の警備が敷かれていた事、時の天皇、清和天皇の行幸と摂政太政大臣、藤原良房(良相の兄)の参列が無かった事に触れておられます。
佐伯氏は、その理由を不穏な政情と考えておられますが、私は、供養大仏会(無遮大会)強行に対して、西大寺の僧侶を中心に抗議活動が有り、その動きを懸念しての措置だった可能性もあると考えています。