それでは、西大寺に壊滅的な打撃を与えた貞観2年の大火災に関して私なりの推理を述べさせていただきます。
貞観二年4月8日、「日本三代実録」には記載されていませんが、翌年3月14日に無遮大会を設ける事が決められ、朝廷、東大寺は、もちろん参列する諸大寺も一年がかりの準備に取り掛かり、西大寺も伎楽または唐楽を奉納するための準備を進めていたと思います。
ところが、その最中のある日、西大寺は大火災に見舞われてしまいます。
火災が、どのような状況だったかは史料が全く無いので想像になってしまいますが、私は伽藍の北西隅の政所院辺りから出火し、北から南に吹く風に煽られた火の粉が、正倉院、十一面堂院を焼き尽くし、正倉院から薬師金堂に飛び火した火の粉が、薬師金堂、中門、四王院などを焼き尽くした惨状をイメージしています。
無事だった建物は、伽藍の北東にあって難を逃れた食堂院、風向きが幸いして薬師金堂からの類焼を免れた再建まもない弥勒金堂、他の建物から離れていて、伽藍中央に有りながら難を逃れた東西両塔位で、四王堂の金銅四天王像は焼失は免れたものの、多聞天像以外の三体の天部は熔解して、かなり損壊のひどい状態ではなかったかと想像しています。
斎衡二年に大仏の首が落ちた時の東大寺同様、西大寺も大火災後の状況を朝廷に奏上し、先の弥勒金堂再建で財力を使い果たし、自力での伽藍の完全復興は難しい事を説いて朝廷の支援を請うたと考えられますが、この願いを朝廷は黙殺し、現状視察のための使者も派遣されなかったと僕は考えています。
翌年3月14日と決められていた東大寺の大仏修理完成を祝う無遮大会は、この時の朝廷としては朝廷の力を誇示するための待ちに待った大イベントだったと思います。
それを間近に控えた時に起きた西大寺の大火災は想定外の出来事だったと思います。
参加寺院の一つで大火災が起きて伎楽や唐楽の道具も失われたのですから、まずは、その復興に力を貸し、一段落着くまで東大寺の無遮大会は延期するのが順当な判断だったと思います。
しかし、その時の朝廷の責任者は、有る事情から、翌年の無遮大会は西大寺抜きで決行しようと決断したと思われます。
そして道理に外れた判断をした事を後世の人から謗られる事を恐れ、この年の西大寺の大火災は無かった事にするため、西大寺からの奏上、請願を黙殺した上、奏上が有ったという記録も抹消してしまったのではと推測しています。
〈追記〉
以上が最初に推理した内容ですが、「西大寺資財流記帳」を読み直し、杉本直次郎氏著「真如親王伝研究」と佐伯有清氏著「高丘親王入唐記 廃太子と虎害伝説の真相」を読んで、推論を補足する必要を感じた事を追加させてもらいます。
まず「西大寺資財流記帳」の楽器衣服第六によると、宝亀十一年(780)の西大寺には呉楽(伎楽)に関するものと、唐楽に関するものが完備され、唐楽に付随する形で高麗楽に関するものも備えられていた事が分かります。
もし西大寺が貞観二年(860)の大火災に遭わず、貞観三年(861)三月十四日の無遮大会に参座していたら奏したのは、どの渡来楽だったかを考えると、東大寺には高麗楽に関するものが西大寺以上に完備されていたとすれば、法隆寺には「法隆寺伽藍縁起並流記資財帳」から呉楽(伎楽)に関するものしか完備されていなかったと考えられるので、唐楽であったと推定されます。
当初決まられた各寺の分担は下記のようであったと考えられます。
東大寺 高麗楽・天人楽
山階寺(興福寺) 胡楽
元興寺 新楽
大安寺 林邑楽
薬師寺 散楽・緊那楽
法隆寺 呉楽
西大寺 唐楽
また、この無遮大会について正式な国史「日本三代実録」では、その時に奏された楽について「大唐 高麗 林邑等の楽」と記載されていて、西大寺により唐楽も奏されたと思わせる偽装がなされています。
次に貞観二年の有る日、私は、風向きから年も押し迫ってからだと想像していますが、西大寺が火災で壊滅的な被害を被ったのに、翌年に従来の予定通り、無遮大会が行われた理由ですが、その時の朝廷の権威を示す一大イベントで有ったという事以上に、大きな理由が真如親王の入唐問題で有ったと思います。
真如親王(法名)は元の名は高丘親王といい、平城天皇の第三皇子として生まれ、平城天皇が弟の嵯峨天皇に譲位された時に、その皇太子に立てられたものの、その翌年に起きた薬子の変で皇太子を廃された方です。
その後、出家して空海に師事して真言宗を修め、斉衡二年(855)に東大寺大仏の仏頭が落下した時には、修理東大寺大仏司検校という役に任じられ、当時、大納言だった藤原良相とともに修理の責任者になります。
そして無遮大会の後、入唐の許可を得て、船の建造に取り掛かり、翌年貞観四年(862)に入唐を果たします。
杉本氏は真如親王の入唐には、同じ修理責任者として親交の有った良相の尽力が有ったと考えておられますが、私は、無遮大会の日取りが決まられた貞観二年(860)の四月には真如親王は翌年の無遮大会が終われば、入唐したいという気持ちを良相に打ち明けていたと思います。
この年の暮れ近くに西大寺が火災で壊滅的な被害を受けた報告を受けた時、良相は真如親王が既に六十二歳という高齢であった事を鑑み、西大寺の復興を待って無遮大会をする事により真如親王の入唐の夢が叶えられなくなる事を憂慮して、予定通りに行う事を決意したのではないかと思います。
西大寺の罹災を隠蔽しようとしたのも真如親王が帰国した時に、その経歴に傷を付けないようにする配慮が有ったと思います。
この事については、東大寺を始めとする南都諸大寺も同意したと想像しています。
そのように考えると、西大寺の貞観二年の罹災が朝廷によって隠蔽されただけでなく、西大寺では、辛うじて伝承されましたが、南都諸大寺においても記録が残されなかった事の説明がつくような気がします。