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増長天像邪鬼(部分)



③貞観二年(860)の大火災について


西大寺で弥勒金堂の再建が進んでいたと思われる斎衡二年(855)5月、東大寺は地震で大仏の首が地に落ちるという災いに見舞われます。

この事は、すぐに朝廷に奏上され、朝廷主導で修理が進められ、貞観二年(860)には、ほぼ修理が完了したようで、「日本三代実録」によると4月8日に、供養大仏会の担当者が決められます。

おそらく、この時に翌年、3月14日に大仏供養の無遮大会を設ける事も決められたと思います。

そして、翌貞観三年(861)3月14日、大仏供養の無遮大会が盛大に開かれ、その詳細は東大寺要録に収録されている「供養東大寺盧舎那大佛記文」で知る事が出来ますが、私が注目したのは、同じ東大寺要録に収録されている「恵運僧都記録文」の記載です。
そこには諸大寺音楽としてこの時、諸大寺により奉納された音楽の明細が載せられていますが 

東大寺 高麗・天人楽
山階(興福寺)胡楽
元興 新楽
大安 林邑 
薬師 散楽・緊那楽 
法隆 呉楽

と有って西大寺についての記載は有りません。 

七大寺の中で西大寺だけ参加していなかった事になります。

宝亀十一年(780)に勘録された西大寺資財流記帳には、楽器衣服の目録が有り、伎楽、唐楽に必要なものが完備されていた事が分かります。

それらが現存していれば、当然、西大寺も、この大会に参加していたでしょうし、もし、何らかの理由で失われたとしても、この大会まて、日にちが有れば、新たに作って参加する事が出来たと思います。 

以上のような事から考察して、貞観2年4月から貞観3年3月までの間に、西大寺に大火災が有ったのではないかと考えられます。

ここで注目したいのが江戸時代に書かれた西大寺所有の「西大寺縁起」に記載され、その後、延宝九年(1681)に林宗甫の著した「和州旧跡幽考」に引用されている貞観二年(860)の炎上説です。

近年。出版されている西大寺関連の本では、ほとんど取り上げられていませんが、東大寺要録の記載から推測して、かなり信憑性の高い説だと思います。

先程、私は西大寺の大火災を貞観二年4月から貞観三年3月の間と考えられると書きましたが、この説を信じて貞観二年4月からの貞観二年一杯に絞っても良いと思っています。

そして西大寺に貞観二年の大火災の記録が、どのような形かは分かりませんが連綿と江戸時代まで受け継がれていた事は奇跡に近いと思います。

後ほど、私の推理を述べさせていただきますが、西大寺の貞観二年の大火災は本来は国史に記載される大事件でした。

ところが、この大火災は故意に歴史から抹殺される事になり記録が残らなかったため、その記憶も徐々に薄れていき、平安時代後期、大江親通が巡礼した頃には、七大寺巡礼私記に載せられているような、貞観旱魃の時、青瓷の瓦が消滅したので、その後、他の瓦で葺きかえたという伝承に変形していました。