この推理は、法隆寺に現存する百萬塔は、当初から法隆寺に安置されていたものではなく、鎌倉時代以降に他の寺院(岡寺が一番有力だと思います)から運びこまれたものである事が前提になっています。
嘉禎四年(1238)に顕真によって著された「聖徳太子伝私記」に百萬塔の所在が載っていないので、それ以降に運び込まれたと私は思っていますが、もし当初から法隆寺に安置されていたものという確証が得られれば、この推理は成り立ちません。
法隆寺から西大寺に移された百万塔は、吉備由利願経の代わりに四王堂に安置されたと僕は思っています。
そして貞観二年(860)の大火で建物と運命を共にして失われたと考えています。
では、法隆寺に移された吉備由利願経は何処に収納されたのでしょうか。
今日、その一部が現存し、国宝に指定されていますが、五千二百巻余りあったものの殆んどが失われているという事は、その収納場所が火災にあった可能性が高いと思います。
法隆寺の建物で、それに該当するのは延長三年(925)に焼失した講堂しかないと僕は思っています。
という事は、法隆寺に当初、分置された百万塔が講堂に安置されていて、その代わりに収納されたと考えられます。
西大寺は、もちろんですが東大寺、興福寺、元興寺、薬師寺は、百万塔を安置するための小塔院が建てられた事が分かります。
そのため中身の百万塔を他の寺院に移す事は目立ち過ぎて不可能だったと思います。
その点、法隆寺の場合は、理由は分かりませんが、百万塔安置のためだけの建物を建てずに講堂に他のものと一緒に安置していたので、目立たないで西大寺に移せるという事で両寺の間で交渉が成立したのではないでしょうか。