「 唐招提寺の謎を推理」の前提の推理を進める前に、平安時代初期の西大寺の変遷についての推理を述べる方が読みやすいと思いますので、先にこちらの推理を述べさせてもらいます。
西大寺が貞観二年(860)に大火災に遭った事は間違いないと思いますが、その事について触れている解説書は少ないです。
その理由も考察しながら、西大寺の変遷を述べさせてもらいます。
西大寺の変遷を推理①
西大寺は宝亀11年(780)12月、資財流記帳が勘録された頃に、ほぼ完成したと考えられています。
その後、平安時代初期の建物罹災に関する確かな記事は承和13年(846)の講堂焼失のみです。
この建物は西大寺の鎌倉時代の敷地図などを基に、弥勒金堂とする説が有力で私も、貞観二年の火災状況と「大和寺集記」の西大寺の記事から、この説を支持したいと思います。
ここでは、荒唐無稽だと思われるでしょうが、その頃の史料を私なりに解釈し、平安時代初期の西大寺の変遷を推理して記述させていただきたいと思います。
まず、結論で有る私の推理する事柄を先に載せさせてもらい、その後で、それぞれの項目の、そう思う根拠、理由を順次、書かせていただきたいと思います。
推理した事柄
○天長五年(828)2月以前
小塔院焼失
○貞観2年(860)以前
弥勒金堂再建
○貞観2年(860)
大火で弥勒金堂、食堂、四王堂の四天王、東西両塔を除き殆んどの堂宇焼失
①小塔院の焼失
鎌倉時代の複数の敷地図で、弥勒金堂、薬師金堂、四王院、十一面堂院、食堂、東西両塔の位置は確認出来ますが、小塔院の場所は弘安三年(1280)の西大寺敷地図にしか記載が有りません。
この記載に基づいて、江戸時代に作製された創建当時を想像した伽藍図では小塔院は十一面堂院の北に描かれていますが、「西大寺資財流記帳」の記載順では小塔院は四王院の北に有ったと考えられます。
弘安三年の敷地図は、礎石の位置から小塔院の場所を推定しただけで、この頃には、その所在地が何処に有ったか分からなくなっていたのだと思います。
この事から西大寺の主要堂宇の中で小塔院は一番最初に失われ、所在地の伝承も無かった可能性が高いと思います。
私は主要堂宇の罹災は貞観2年(860)と考えていますので、小塔院は、それ以前に失われていた事になります。
その時期を特定する上で注目したのが天長5年(828)2月、西大寺四王堂の吉備由利願経を法隆寺に移したという「日本紀略」の記述です。
寺の規模、寺封を比べても当時は西大寺の方が法隆寺より格上だったにもかかわらず、西大寺が重要な仏典を一方的に譲り渡す事があり得るだろうかというのが最初の疑問でした。
実は、この移動は両寺の間での物々交換で、西大寺は、どうしても必要な物を手に入れるため、重要な仏典を手放したと考える方が自然ではないかと思うようになりました。
では、その、法隆寺が所有していた、西大寺にとってどうしても必要なものとは何かと考えた時、百萬塔の内の十万基以外に考えられないという結論に達しました。
百萬塔は称徳天皇の発願によって製作され、十大寺に分置されたもので、称徳天皇の発願で建立された西大寺にとっては最も重要な宝物の一つだったと思います。
この頃は、他の九大寺の百萬塔は失われていなかったと思うので、天長五年以前の、そう遠くない時に、小塔院の焼失で最初に失った西大寺の衝撃は大きく、法隆寺と交渉して取引が成立したと考えています。
ただ、西大寺所有の百萬塔が失われた事は寺の名誉を守るため極秘事項とされ、法隆寺から西大寺への百萬塔の移動の事実を隠すため、西大寺から法隆寺への一方通行の記録が残されたのではないでしょうか。