小学五年生の頃、初めて法華寺の十一面観音像を観てから仏像の魅力にはまり、時間が有れば奈良市内の仏像を観て回っていました。

その頃、初めて西大寺の四王堂の四天王像を拝観しましたが、その時には、それほど興味は有りませんでした。

その後、大学生の時に「七大寺巡礼私記」という平安時代の巡礼記との出会いが有り、そこに書かれていた西大寺の衰退した様を見て、なぜ、そうなったのか、その変遷に興味を持ち、四天王像に対する見方も変わりました。

四天王像は貞観2年(860)に西大寺が大火災に見舞われた時に多聞天像以外の三躯の天部は失われて、その後、再鋳され、唯一残った多聞天像の天部も文亀2年(1502)に西大寺が兵火に遇う以前に地震で倒壊して木造で再興されたものと推測しています。
文亀二年の兵火で西大寺の建物は、ほぼ全焼してしまいますが、その前に仏像は避難出来たようで、それ以前から安置されていた主要な仏像は大きな破損も無く今日に伝えられています。

このような経緯で四王堂の四天王像は四躯とも、足下の邪鬼は創建当時のものが残っています。
貞観2年の火災の時の焼損の度合いは、それぞれ違い多聞天像の邪鬼が一番完全に近い形で残っています。
ところが、近年、出版された西大寺に関する本には、増長天像の邪鬼だけが創建当時からのものとする誤った記述が有り、これによって真実でない情報が流布しているようで残念です。