長谷川逸子さんのT-HOUSEに興味を持った。いくつかの思考が同時展開し始める興味深い作品で、また「ああすれば、こうすれば」のおもいを焚き付ける、完成度の低い部分もあるように思われる。
プランでまず連想したのは藤本壮介氏のご実家の診療所である。ほぼ正方形の輪郭のなかを小さな矩形の空間の連続として分節して、それをつないだりくぎったりしてフレキシビリティや歩行者への路地感を生み出している、そんな作品だったと思う。あれの箍をはずしてもうすこしゆるめてずるずるとさせたらT-Houseなのだな、と思った。藤本氏のは緩く文節されたユニットが集まることでうまれる都市性や路地性に力点が置かれているのに対して、長谷川氏のは離散性に力点が置かれている。スタディや思考の始めにセットされたのはどちらも平屋の矩形ボリューム。そのボリュームがなんらかの要因で分裂を始め離散運動が始まるのだが、藤本氏のは分裂化が始まって離散運動が開始される直前で凍らせて建築として取り出している。長谷川氏のほうは離散運動が開始したのを見届けて、しばらく経過を観察して完全に離散する前の段階で凍らせて建築として取り出している。両者の作品から、平屋の建物を考えるときのひとつの建築の思考モデルがみえてくる。分節化のきっかけや動機と離散状態の段階の設定いかんで無数の建築が生み出しうる、平屋建築思考モデルがそこにある。
他には青木淳さんのルイビトンが思い浮かぶ。均質空間の積層ではなくスケールの異なる空間の立体的な連鎖という戦略をとっている点ではかなり近い。ルイビトンの平屋版ともいえるかもしれない。ただ、立地が異なるので、ルイビトンはあくまで切り取られた都市空間の内部の構成、デザインのための方法であったが、長谷川氏は周辺環境と建築環境の接触面積を増やしてからませる為の方法としている。
また民家の解体/再構成としても受け取れるのではないかと思った。民家の空間構成はその時代の材料や構法から演繹されたものなのであろうが、民家のもつ空間の構成や特質だけを取り出して解体し、解体後それぞれの要素や関係性に変調をかけて再構成したらT-Houseになるのではないだろうか。
様々なスケールをもつあるひとつのまとまりが無作為に連鎖して、進んでゆくうちどこからどこまでがひとつのまとまりの内なのか分からなくなってゆく様は、どこかWEBの構造、サイトとサイトの関係性にも似ている。
完成度が低いだなんてことを言ってしまったので、それについても思ったことを書いてみる。この建物、内観だけだとよくわからない建物である。鳥瞰アクソメをみて始めて「あーそういうことか」となる。離散運動の途中で止めたようなずるずるとした感じはわかるのだが、せっかく透明と不透明の大小ボリュームを連鎖させているのだけど、それがあまりよくわからないのである。なにか、うるさいというか中途半端な感じが拭えない。スタディの過程で不透明のボリュームは素材やテクスチャを変えようというようなスタディもあったんじゃないだろうか。それでもなお白くしたのは、ボリュームそれぞれの等価性の表現の為だろう。だけど、この場合すでにある程度分節と要素の変調が進行しているのだから、それぞれの要素の等価性にこだわって白くする必要はなかったのではないか。すこしグレーのトーンをかけたり、ガラスの透明度を操作してガラスの面としての性格をもう少し強めるなどの、最後のモノの表現としての微調整がほしかったところである。
プランでまず連想したのは藤本壮介氏のご実家の診療所である。ほぼ正方形の輪郭のなかを小さな矩形の空間の連続として分節して、それをつないだりくぎったりしてフレキシビリティや歩行者への路地感を生み出している、そんな作品だったと思う。あれの箍をはずしてもうすこしゆるめてずるずるとさせたらT-Houseなのだな、と思った。藤本氏のは緩く文節されたユニットが集まることでうまれる都市性や路地性に力点が置かれているのに対して、長谷川氏のは離散性に力点が置かれている。スタディや思考の始めにセットされたのはどちらも平屋の矩形ボリューム。そのボリュームがなんらかの要因で分裂を始め離散運動が始まるのだが、藤本氏のは分裂化が始まって離散運動が開始される直前で凍らせて建築として取り出している。長谷川氏のほうは離散運動が開始したのを見届けて、しばらく経過を観察して完全に離散する前の段階で凍らせて建築として取り出している。両者の作品から、平屋の建物を考えるときのひとつの建築の思考モデルがみえてくる。分節化のきっかけや動機と離散状態の段階の設定いかんで無数の建築が生み出しうる、平屋建築思考モデルがそこにある。
他には青木淳さんのルイビトンが思い浮かぶ。均質空間の積層ではなくスケールの異なる空間の立体的な連鎖という戦略をとっている点ではかなり近い。ルイビトンの平屋版ともいえるかもしれない。ただ、立地が異なるので、ルイビトンはあくまで切り取られた都市空間の内部の構成、デザインのための方法であったが、長谷川氏は周辺環境と建築環境の接触面積を増やしてからませる為の方法としている。
また民家の解体/再構成としても受け取れるのではないかと思った。民家の空間構成はその時代の材料や構法から演繹されたものなのであろうが、民家のもつ空間の構成や特質だけを取り出して解体し、解体後それぞれの要素や関係性に変調をかけて再構成したらT-Houseになるのではないだろうか。
様々なスケールをもつあるひとつのまとまりが無作為に連鎖して、進んでゆくうちどこからどこまでがひとつのまとまりの内なのか分からなくなってゆく様は、どこかWEBの構造、サイトとサイトの関係性にも似ている。
完成度が低いだなんてことを言ってしまったので、それについても思ったことを書いてみる。この建物、内観だけだとよくわからない建物である。鳥瞰アクソメをみて始めて「あーそういうことか」となる。離散運動の途中で止めたようなずるずるとした感じはわかるのだが、せっかく透明と不透明の大小ボリュームを連鎖させているのだけど、それがあまりよくわからないのである。なにか、うるさいというか中途半端な感じが拭えない。スタディの過程で不透明のボリュームは素材やテクスチャを変えようというようなスタディもあったんじゃないだろうか。それでもなお白くしたのは、ボリュームそれぞれの等価性の表現の為だろう。だけど、この場合すでにある程度分節と要素の変調が進行しているのだから、それぞれの要素の等価性にこだわって白くする必要はなかったのではないか。すこしグレーのトーンをかけたり、ガラスの透明度を操作してガラスの面としての性格をもう少し強めるなどの、最後のモノの表現としての微調整がほしかったところである。