…これは、内観の記録なので、お気になさらず😅

~先生のブログより~

最近私が知る現場で感じること。

自分に厳しく、他人にも厳しい人

自分に厳しく、他人には優しい人

自分に優しく、他人には厳しい人

自分に優しく、他人にも優しい人

自分の視点や感覚のみの人

あなたはどのタイプかな?

内観の視点にどうぞ。

優しい、厳しいは表現の表と裏がありますね。

ちなみに修験道は自利行(自己の修行)から入り、

利他行(他者のために修行)となります。

言葉を変換すると

自身の心と身体を見つめ直し、天地宇宙の法を

学び、そこから生じた心と経験を他者のために

活かすこととなりますか。


合掌

 凄く難しいテーマだと思います。

 

 すっごく、俗世なお仕事や、修験のことで最近ちょこちょこ気になる部分。


 基本的に自身には厳しくしたいタイプではある…しかしながら、厳しくも、優しくもドが過ぎると、心の軸ブレを起こして、反動で心と身体がついていけなくなると思う。


 「厳しい」は、パッと見なイメージは、容赦ないというのか、ストイックで情がないみたいな感じかな。(↓一応、辞書)


 で、「優しい」は表向きほんわかした、あたたかいそうな感じをうけるわけだが、「情け」がある…(↓一応、辞書)

 …憂いな部分もある。優柔不断とも言えるかも知れない。


 うーん、対他人や、自身となると、それぞれの人との間合い、自身の心と身体のコンディション、知り得る限りの相手の精神状態によっても、優しく・厳しくの見定めは、変幻自在にしないといけないと思います。


 とくに、現代っ子との間合いって、すごく難しく感じます。それぞれ、セルフィッシュというのか、ストライクゾーンが狭いというのか…自分もヒトのこと言えませんが(笑)


 なにかにつけ、即完全シャットアウトにするケースが多いような😓

 …まぁ、塞ぎ混んで負の連鎖を繰り返しちゃうよりは、ましなのかも。


 自身の内面が確りしている人であれば、どんなに人様を非難していいわけでもない。


 確かに、感じる感覚が私的には、不足しており、補わなくてはならないトコ。

 …裏を返せば、感覚特化の方々は、その裏付けなどの課題もあるのかも。


 …ふと、過日における会話を思い出した。イメージやら直感で、もの申す人。

 かくして、深層で見えているものはどうあれ、言われた人の行の邪魔となる発言をしたのであれば、「魔」というものを形成してしまったのではないか?

 

 即ち三毒を根元とし、身・口・意より生まれし悪業…懺悔する重要性はそこにあるのかもそんな感じに思えたり。


 …そう考えた場合、その類いのは確かにそんじょそこらにゴロゴロしてるし、自らを常に悔い改めなくてはならないのかもとか思ったり。


 それ故に、指導者はその場の出来事、全てに気付き、双方が気付くか待ってみて、魔が刺さないよう包みこむような指導をくれたのかも知れない。

 あんまり詳しく読んでないけど、バガヴァットギーターで、旧友や恩師が敵にいる戦場で、戦士アルジャナが戦意喪失しちゃって、神様にどうすりゃいいの?と泣き付いても、戦士アルジャナが冷静になるまで、神様が期を待っていたように。


 知ってるけど、立場上直接は、教えられない故に状況判断し、適切に導く…凄いなぁと思いました。


 この世の人間、皆発達障害持ちだとしたら?

 誰しもが「心の安寧」を求めるのではないか?であれば、「よりよく皆で生きる」をテーマにした人生という道を進むのにはどうするべきか…


 即身成仏となり、他者をも救い、やがて世界をも救う。

 あまりにも小さいことにとらわれすぎす、自分なりに自分の歩幅とペースをみつけて、楽に歩けばいいのかも。


 仕事もそう…慣れるまでがすっごく大変で、慣れてきたら、見える景色も違ってきたり、自然を五感でよく識別できたり。


 「いまここ」を生きなくちゃいけない。

 「過去」でも「未来」でもない。「イマ」を!


 表現が極端な例えながら、「今夜、眠ったとして、二度と目覚めることがなかったら?」そう、心残りは「執着」ではないか?


 日立に住んでた叔父様が孤独死で亡くなって暫く後に、父が「あぁ、面白い人生だった」と言って死ねるように生きたいもんだなぁと言っていた。まったくその通りだな。

 そのころは、「メメント・モリ」を府に落としたな


 折角、幼少の頃に死にかけて救って頂いた命だし、他の人も助けられるよう、マイペースに頑張るかね。

 

 そんなことを考えていました。