世界にはいろんな人がいる。
変わってる人、真面目な人、非行に走る人。
ではその中枢となるのは何か。
「普通」
おそらくこれだろう。
自分はこれを考える上で、では何を基準にしたのか、という命題にぶつかる。
何、もしくは誰が普通の代表なのかが不透明である
そういう意味で普通とは非常に曖昧で脆弱なものであると言える。
まあこんなことを言ってしまえば論理は崩壊するのである種の極論なのであるが。
まあ何が言いたいかというと、「普通」とは人々を均質化するために作られた都合のいいツールなのでは、と私は思う。
教育の現場では集団行動やチームワークといった要素が重要視されることがある。
これらはつまり、他との協調性の植え付け、人と同じように振る舞うことを強いる行為とも言える。
これらを頭ごなしに否定するつもりはない。しかし、学校教育や受験制度には疑問を抱く点が多くある。
問題の答えが予め決まっていたり、他との比較をすることで優劣を決める。
当然であるが、我々は機械ではない。
自由な発想を持ち、他とは生きてきた環境も構成要素も異なる。
そんなヒトとヒトを如何にして比較しうるのか。
まあ、そもそも他者に自分のことを勝手に評価査定されるのも解せぬことではあるが。
その点は多少仕方が無い。
ながながと綴ってきたが、
普通に囚われることはその枠からはみ出た人に奇異の目を向けたり、差別に繋がるのではと私は考える。
私はここまで18年間、普通からはみ出して生きてきた側だ(もちろんわざとそうしてきたつもりはさらさらない)。
普通じゃなくたって生きていけるはずだよ。