私たちが普段使っている「構造」と言う言葉で私たちは何を認識しているのでしょうか。そして、私たちが美しいとしている構造って何なのでしょうか。さらに芸術って何なのでしょうか。それを、学問的に分析してみます。
物理学ではこの世界に「構造」がどのようにして出来上がってくるのかを分析します。そして物理学が使う言語は数学です。数学、すなわち数を扱う学問です。だから、構造も数、すなわち量で表さなければ数学を使って論じられない。さらに、構造には複雑な構造と単純な構造がある。単純な構造の例は結晶のように規則的に物質が配位されているなどです。複雑な構造の例は我々の身体や脳味噌の構造などです。
そして、この宇宙にどのような仕組みで複雑な構造が創出されてくるのかを解き明かす物理学の分野を「複雑系の物理学」と呼んでいます。
さて、構造という概念を量的に表し、さらにその創出の仕組みを分析するために、一つの例として、お湯を沸かす時にお湯の中に対流が起こる仕組みを考えてみましょう。それを解りやすくするために、上下に大きな鉄板の間に満たされた水を想像してください(図1)。そして下の鉄板を熱します。上下の鉄板の温度差が十分に小さい時には対流は起こりません。水は止まったまま熱は熱伝導だけで上に伝わって行きます。
図1
しかし、下の鉄板の温度を徐々に高くして、上下の鉄板の温度差を大きくして行くと、ある温度差を超えたところで突然水が動き出し、対流が起こり始めます。そして、下の熱は熱伝導だけではなくて、対流でも上に伝わるようになる。この対流が起こり始める温度差のことを、温度差の閾値と呼びます。
対流の起こる以前と以後で、水のあり方の何が違っているのか考えてみましょう。対流が起こらず静止している水の中では、それを観測している水の位置を平行にずらしても前と同じです。これを物理学者は
「この水のあり方は並進対称性を持っている」
と表現します。一方、対流の起こっている水の中で平行移動をすると、あるところでは水は上に動き、あるところで水は下に動いています。これを物理学者は
「この水のあり方は並進対称性が破れている」
と表現します。そして、物理学者は、ある対称性を持ったものの対称性が破れたとき、
「構造が創出した」
と見做します。そして、対称性の高いものほど単純な構造と認識し、対称性の低いものほど複雑な構造があると認識します。
例えば、貴方と私が直接会って会話をしているとする。そのとき私は貴方を貴方とどのようにして認識できているのか。それは、貴方を形作っている膨大な数の分子が空間の中に均質に分布しているのではなくて、貴方のいるところに集まって分布しているからですね。もし空間の中に均質に分布しているのなら並進対称性がある。しかしこの空間でその分子の分布が並進対称性を破っているから、私は貴方を貴方と認識できる。
上記の対流の例では、対流という構造が生まれるために、誰かがその対流の形を計画的に作り出したわけではなく、ただ単に温度差が大きくなっただけです。すなわちその構造は熱力学という物理法則に従って自発的に並進対称性が破れて創出してきた。そこにはその構造の出現に対して前持っての何んの計画もシナリオもなく、自発的に構造が生まれてきた。このようにして生み出される構造のことを物理学では「散逸構造」と呼んでいます。
この宇宙では、このように物理学の法則に従いながら、何んの計画もシナリオもなく次々と自発的に対称性を破りながらより複雑な構造が生み出されてきました。そして、その散逸構造の中で最も複雑で美しい構造が、我々の脳味噌であろうと物理学者は考えています。
例えば芸術の営みでも、その芸術作品を創出するにあたって、その芸術家の頭の中には色々な作品形態のあり方の可能性が前もって渦巻いている。あれにしようか、それともこれにしようか、という具合に。その場合、頭の中では、あれもこれも同じように可能な、だから均質な状態として存在していたのです。そして、芸術家はついにあれではなくて、これだと決意する。その決意によって、芸術家は作品の可能性のあり方の対称性を破ったことになる。だから、芸術作品は対称性を破る行為で生み出されているのです。従って、芸術作品も散逸構造の一種と言えます。
このように見ると、物理学者と数学者では美の意識がまるで正反対であることに気付かされます。数学者は対称性のより高い図形や論理形態に美を感じているようですが、物理学者は、対称性がより破れていて、対称性がより低い存在形態に美を感じているからです。
さて皆さんは、どちらの存在形態により美しさを感じますか?