噛み合わない議論 | texas-no-kumagusuのブログ

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トミオ・ペトロスキー(Tomio Petrosky、日本名:山越富夫)のブログです。

私はSNS公開の書き込み欄で、質疑応答のやり取りを楽しんでいます。いろいろな人の書き込みで、いろいろな意見が出る。それを眺めていると、意見が噛み合わず、制御不能に議論が白熱して行くことも時々見かけます。

 

しかし私はこの意見の食い違いを楽しんでいます。人間が遭遇できる最も複雑なものって人間だと思っていますから。人間て、幾重にも幾重にも掘り下げても、まだそこに裏がある存在だと思えるのです。話がちょっと逸れますが、無限大の正確な定義は、

「あなたが想像できる最大の数を思い描いてください。その数に1を足したものが無限大です」

とも表現できます。もちろん、その数に1を足してたものが次の最大数になるので、上の定義から、それにまた1を足さなくてはならない。でまた、それに1を足し、、、と繰り返してゆく。だから、無限大って言う一つの数があるわけではなくて、無限大とはこの過程を表した概念のことなのです。

 

人間もそれに類似した存在で、

「人間の心の中の全てをぴっぺ返して、その心の裏を全て理解した状態を想像してみてください。その全てのもの裏にもう一つ裏があるのが人間です」

という存在だと思っています。

そして、この噛み合わなさが、自分の理解しているつもりの人間像がまだ不完全であり、自分の知らない世界を見ている人がいるということを、私に知らせてくれているのだと思っています。

「へー、世の中って、そういう風に世界を見る人がいんだ。そんな見方をしたら、今まで私が見たことなくも気づかなかったことの何が見えてくるんだう」

って考えています。だから、私と意見の違う人の意見は、私の知らなかった世界を見る切っ掛けを与えてくれている、かたじけない意見だと思っています。

なにごとのおはしますかは知らねども かたじけなさに涙こぼるる

あと、私が好んで使う議論の技巧に、連想ゲームがあります。ある人の言述や論旨の論理的な整合性に焦点を当てるのではなくて、そこで述べられている言葉や文脈の中で、私の琴線が共鳴した部分に焦点を当てる。その部分は、それを論じている人にとって中心課題でないかもしれない。でも、そんなことにお構い無しに、その共鳴した部分に話を逸らして、その共鳴状態に浸ってああだこうだと語り出す。そうしていると、本来の議論の目的とは全く違った、いわば副産物の方向に話が逸れてしまう。

私は科学の研究生活を長年生業としてきましたが、その経験によると、はじめに意図していた方向を論理的に緻密に完成させてゆく場合よりも、その途中で前もって予測もできなかったあらぬ方向に議論が横っ飛びしていってしまった場合の方が、はるかに重要な仕事ができたことが、しばしば起こりました。科学の発見の過程では、はじめに狙っていたものよりも、予測だにしなかった副産物の方が常に重要な発見として認められています。

だから、議論の噛み合わなさが私に新しい世界を見せているのだと考えています。