哲学考 3 | texas-no-kumagusuのブログ

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トミオ・ペトロスキー(Tomio Petrosky、日本名:山越富夫)のブログです。

面白い経験をしました。私が何時も敬服している武田邦彦さんが、

「『物理学は事の本質を論じる学問だが、哲学は時間つぶしで娯楽として自己満足しているだけだ』と哲学者に言うと剥きになる哲学者がいるんですよね。彼らは普段、『物事を判断する前に、その話題で相手が何を言おうとしているのか良く聞きなさい』と言っているくせに」

と言うようなことを言っておられましたが、本当にそんな哲学者がいることを、身を以て経験したのです。私の記憶はうろ覚えだったので、武田邦彦   さんのブログを改めて確認したら、平成24年11月29日の彼のブログで、以下のように言っておられました。

「「哲学」は愚劣で醜い学問であり、「物理」は美しい学問である、というと哲学の人はカッときて怒り出す。そこで「あれ、そんなことで腹が立つなら、あなたの哲学って大したことはないですね」と冷やかす。ちょっと批判されたぐらいで、相手の言うことも十分に聞かないで腹を立てるというのは「学問を学んでない人」 だと哲学者は言っているのだから。

実は、この問いには深い意味がある。人間は「生物」の一種であり、生物のDNAは「自己保存、種族保存」が完璧に行われるようにできている。それは実に巧みで、一見して自己犠牲に見えたり、矛盾しているように感じられても、人間の思考が及ばぬ所に「種族保存、自己保存」の狙いが潜んでいる。

「哲学」は「理性」で論理を構築し、結論を出す。だから、科学的には「自分の頭が正しいと考える事は、種族防御・自己防御の範囲内を出ることができない」という原理原則を克服することができないからだ。

そしてこの自己撞着を哲学が克服しうるかについては若干の研究はあるものの、真剣な考察はわずかしかない。多くの哲学者はうっかり哲学(政治学、法学、倫理学など)の道に入ったので、自己を防御したいという自己保存の殻に閉じこもっている。」

話に聞くのと、身を以て体験するのとでは雲泥の差があり、議論のあまりの非生産的な流れに辟易して、失礼とは思いましたが、敵前逃亡を決め込んで議論から逃げ出しました。

個人的には、私の2013.01.30と次の日のブログ『哲学考1, 2』   で書いたことを改めて再認識した印象を持ちました。

あるブログで偶然見つけたのですが、こんなことが書いてありました。

texas-no-kumagusuのブログ-恋愛哲学

この哲学者の言い草を、以下で紹介する経済学者の会話と比べると面白いですよ。

通りの歩道を経済学の教授と准教授が歩いていました。准教授が$100札が落ちていることに気付き、それを拾おうとしました。ところが、それを教授が引き止めて曰く、

「経済学の大前提は、人々は自分の利益を最大限にしようと行動することになっている。ところが見たまえ。通りを歩いている誰も
$100札を拾おうとしていないではないか。と言うことは、貴方が見付けたと言う$100札は、そこには落ちていないのだよ」

お後がよろしいようで。