え~、太極拳とは結構理屈っぽいところがありまして、
あれやこれや気になるものでございまして……。
特に心意混元太極拳などといい、太極の前に妙な言葉がひっついていますので、
なおさらあれやこれやと……なるのも仕方がない。
混元は太極が分かれ出る前のものを指していますね。(すごくざっくりした意味で)
混元が窮まれば太極が生じます。
太極が窮まれば両義、四象を生じ、
四象は八卦を生じます。
ま、そして何となくお腹のおへその奥の方に丹田などという部分を感じ取れれば、
お話は始められることになるのです。
丹田は混元が宿っておりまして……、
そこから陰陽が明らかに発することになります。(陰陽分明)
意念をもって丹田を運転することで、
丹田は太極を生じて、身体全体を陰陽の原理で満たします。
すべてが陰でなくまたすべてが陽でもない。(陰中陽あり陽中陰あり)
このように議論は
すごく神秘的な表現になるのです。
しかし、
安直に理解すれば、(中国ではこのような理解がされる傾向が強いように思います)
太極拳とは丹田の拳法であるということになります。
例えば
右手が右へ動くと同時に左手が左へと動きます。(開)
すると、その両方向への運動の中心点が力点になるはずなのです。
動いている両手の中心に、丹田があるはずですね。
両手の運動は、丹田に力を伝えていることになります。
そして丹田はまた両腕の開合の中心点として勁を発しているはずです。
その時、丹田の運動は全身に伝わり、全身が丹田と応答して運動する……。
言い換えれば丹田が全身を包み込んで支配していると表現するのです。
これが実現した運動を太極拳は求めています。(一動全動)
太極において、
陰陽と善悪とはまったく次元の異なる概念です。
太極の原理に沿ったものが善であり、
原理から外れれば悪なのです。(身体を壊すことになるから)
むしろ、
陰が陽を支え、陽が陰を求める相互に依存する関係です。
そして陰陽分明は虚実分明を経て勁を生み出します。
ある時は陰-虚、陽-実。
また、陰-実、陽-虚。
この虚実もまた善悪とは関係を持たない概念です。
陰陽と同じように、
太極の原理に沿ったものが善であり、
原理から外れれば悪なのです。
このように太極は、
陰陽-虚実を支配する原理なのです。
それを自らの丹田に形づくり、
明確にし、意念をもって運転できるのが、
陳式心意混元太極拳
ということになるでしょう。
あれやこれや気になるものでございまして……。
特に心意混元太極拳などといい、太極の前に妙な言葉がひっついていますので、
なおさらあれやこれやと……なるのも仕方がない。
混元は太極が分かれ出る前のものを指していますね。(すごくざっくりした意味で)
混元が窮まれば太極が生じます。
太極が窮まれば両義、四象を生じ、
四象は八卦を生じます。
ま、そして何となくお腹のおへその奥の方に丹田などという部分を感じ取れれば、
お話は始められることになるのです。
丹田は混元が宿っておりまして……、
そこから陰陽が明らかに発することになります。(陰陽分明)
意念をもって丹田を運転することで、
丹田は太極を生じて、身体全体を陰陽の原理で満たします。
すべてが陰でなくまたすべてが陽でもない。(陰中陽あり陽中陰あり)
このように議論は
すごく神秘的な表現になるのです。
しかし、
安直に理解すれば、(中国ではこのような理解がされる傾向が強いように思います)
太極拳とは丹田の拳法であるということになります。
例えば
右手が右へ動くと同時に左手が左へと動きます。(開)
すると、その両方向への運動の中心点が力点になるはずなのです。
動いている両手の中心に、丹田があるはずですね。
両手の運動は、丹田に力を伝えていることになります。
そして丹田はまた両腕の開合の中心点として勁を発しているはずです。
その時、丹田の運動は全身に伝わり、全身が丹田と応答して運動する……。
言い換えれば丹田が全身を包み込んで支配していると表現するのです。
これが実現した運動を太極拳は求めています。(一動全動)
太極において、
陰陽と善悪とはまったく次元の異なる概念です。
太極の原理に沿ったものが善であり、
原理から外れれば悪なのです。(身体を壊すことになるから)
むしろ、
陰が陽を支え、陽が陰を求める相互に依存する関係です。
そして陰陽分明は虚実分明を経て勁を生み出します。
ある時は陰-虚、陽-実。
また、陰-実、陽-虚。
この虚実もまた善悪とは関係を持たない概念です。
陰陽と同じように、
太極の原理に沿ったものが善であり、
原理から外れれば悪なのです。
このように太極は、
陰陽-虚実を支配する原理なのです。
それを自らの丹田に形づくり、
明確にし、意念をもって運転できるのが、
陳式心意混元太極拳
ということになるでしょう。