内堀や遺跡を見て、さらに登城すると広場があって、そこは駐車場になっています^^)
僕は、安芸高田市歴史民俗博物館に車を止めて歩いてきましたけど、車でここまで、来ることが出来ます^^)
その駐車場があるところに、青光山(あおみついやま)尼子(あまこ)陣所跡を見ることが出来ます^^)
下の写真に書いてありますけど、「手前の多治比川をはさんで、向こうに見える山は左が青山で、右が光井山で、総称して青光井山と呼んでいます。中略 1540年(天文9年:翌年の1541年は武田晴信(信玄)が父の信虎を追放した年です^^)9月風越山から陣を移した尼子詮久(あきひさ)(晴久:はるひさ)が率いた3万の大軍は、1541年(天文10年)正月ごろまでに5か月あまりにわたり、毛利元就と対峙(たいじ)し、郡山合戦を繰り広げたところです。 後略 と書かれています^^)↓
じゃあ戦いはどうなったの?って疑問が残りますから、「毛利元就のすべて 河合正治編 新人物往来社」には「1540年元就公44歳で、6月下旬に尼子新宮党の国久が3千騎を率いて備後路より郡山攻撃に向かうも、宍戸氏の防戦で退く。9月4日尼子詮久3万の大軍を率い、安芸に入り郡山城を攻めたけど、1541年の正月までの期間に郡山城の付近で数次激戦を展開したが、尼子軍大敗。9月26日坂豊島合戦で尼子の将「湯原宗綱を斬る。10月11日青山土手場の戦いで、敵武将三沢為幸を斬る。12月3日大内氏援軍吉田に来着。1541年1月13日宮崎長尾合戦で陶隆房の援軍が尼子詮久の本営青山三塚山を強襲し敵将尼子久幸を斬り大勝し、尼子軍大軍が同夜撤退と書いてあります^^)
郡山城から見た木の向こうですけど左が青山で右が光井山です^^)↓
さらに登城します