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タイトルの前に^^)


本名を書くわけにはいかないので、鐵斎の反対で「いさって」です^^)


そういえば、最初は「鉄斎」と名乗っていましたけど、ある人から、鉄斎は「富岡鉄斎」が有名なので、鐵斎にしたら?とおっしゃったので、漢字を変えました^^)


鐵斎の方がしっくりきています^^)


多分、台湾の方や中国で書道をしている人なら、見ても読めるんじゃないかな?^^)


まあ国際的なブログでないから、外国の奇特な方が対象でしょうけど^^)


それでは写真です^^)



大専坊の反対側にあるのが、「圓樂坊」です^^)


「圓樂坊は。大専坊と同じく延喜4年(904年)国司の土師(はじ^^)信貞が『松崎の社』を草創(そうそう^^)されたと伝えられている


別当 大専坊が年中行事と祈祷を管掌(かんしょう^^)したのに対し、圓樂坊は執行坊として、造営、営繕(修理など^^)のことを管掌し、その権勢は大専坊と匹敵していた」と書いてあります^^)


「中略^^」


「古文書によると、この圓樂坊で、天正5年(1587年)に細川幽斎(細川忠興の父親で、信長の野望で有名な細川藤高^^)が連歌百韻の興行を催した」と書いてあります^^)


1587年は豊臣秀吉が九州を平定してキリスト教の布教を禁じた年でもありますけど、安定した世の中になった年でもありますね^^)


毛利元就は亡くなっていますから、輝元の時代ですけど、毛利元就と連歌の関係は古いものがあります^^)


1523年8月10日に、毛利家宗家継ぎ、吉田郡山城に入城した27歳の元就が、その報告を兼ねて、吉田八幡宮の神前で、記念の連歌会を開いたようです^^)


毛利家と連歌の結びつきが、本能寺の変の時の明智光秀に陣中見舞に来た、連歌師を想像しますね^^)


だって、毛利家は助かり、秀吉には恩を売って、徳川家康は京、堺でやられそうになったし、秀吉は大軍で攻めて来ていたので、明智光秀は討たれるだろうという、絶好のタイミングで連歌師は「時は今」って言ったんですからね^^)


だから秀吉追討軍を毛利が出さなかったと思います^^)


「また慶長3年(1598年)には、豊臣家5奉行の一人、石田三成が宿泊したことが記されている」と書いてあります^^)


1600年が関ヶ原の戦いなので、三成が密談に来たのかもですね^^)↓
晴れ時々時事


その圓樂坊の隣が、茶室「芳松庵」です^^)
晴れ時々時事


「御祭神 菅原道真公は、お茶に関する故実を調査して正史に著し、宮廷貴族を始め庶民社会に喫茶の習慣を広められ 茶聖菅公と称えられています」と書かれています^^)


菅原道真公がお茶を広められなかったら、大名もお茶をすることがなかったでしょうね^^)


中略^^


「また邸内の一角には勤王の志士たちが密議を交わした史蹟「暁天楼」も建立されています」と書かれています^^)


実際にここ「芳松庵」でお茶が飲めるようですから、勤王の志士に思いをはせながらお茶を楽しまれてくださいね^^)↓
晴れ時々時事


とっても素敵な茶室芳松庵ですよ^^)↓
晴れ時々時事


いよいよ次回は防府天満宮の中に入ります^^)


明日はお休みですニコニコ