ブログネタ:参院選、関心ある?
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タイトルの前に^^)
それは大事な国政選挙ですから、関心があります^^)
ブログでは、政治経済ランキングを止めてますから、政治はあまり書きませんけど、そもそも選挙権を得るのにとても国民は長い間待ちました^^)
最初は地主とか納税額が多い人しか選挙権がなかったんですけど、それを伊藤博文初代内閣総理大臣たちが苦労したから普通選挙で20歳以上の日本国民に選挙権が与えられた訳です^^)
たとえ途中で戦争があってもです^^)
そういう意味では、選挙に行かない人は昔のように地主や納税額が多い人だけに選挙権があればよいと思っているのと同じことですね^^)
山口県は参議院選挙の補欠選挙がもう少ししたらありますけど、自由民主党からは「江島潔」候補が立候補されます^^)
元の下関市長ですけど、行政手腕はありますから、当選したら山口県のために十分働かれると思います^^)
もちろん日本国と国民のためにもと思いますよ^^)
僕は「江島潔」候補を応援します^^)
本番の参議院選挙も楽しみです^^)
それでは写真です^^)
野山・岩倉獄は前回の写真空間よりはるかに広かったと、小学生のお孫さんに宿題を教えていらっしゃった方がおっしゃっていました^^)
そもそも屋敷跡ですから、石碑があるくらいの広さでは収容できませんね^^)
それから、山縣有朋公銅像を見てから、一路長門市に向かって走りましたけど、ちょうど萩の三見という海沿いの場所から山陰自動車道の無料区間があって、とっても快適に長門市の三隅まで行けました^^)
今でも山をぐるぐる上る国道がありますけど、かなり走らないといけないので、とっても便利に萩市と長門市が短時間で行き来出来るようになりました^^)
長門市の三隅の国道を長門市内へ走っていくとこの看板に出会います^^)↓
村田清風の藩主以下の倹約と殖産である、米、紙、塩、蝋の生産という「4白政策」で長年の莫大な長州藩大赤字(8万貫は200万両に相当する額^^;)を黒字に転換させて、さらに莫大なお金を作ったから、軍船や高価な西洋銃や西洋への渡航費などが捻出できました^^)
だから高杉晋作や伊藤博文などが下関や長崎などで飲み倒す事も出来ましたよ^^)
そういう事も仕事のうちで、今なら交際費で飲んでいる部長ですね^^)
だから僕も借金が返済出来てお金が貯まるように、長門市に来た時はお参りしています^^)
ここから、萩市明倫館まで21キロメートルあったようで、それを村田清風が学生の時に毎日歩いて通っていました^^)
その行程を毎年7月中旬に小中学生を対象に一緒に歩きましょうと書いてあります^^)
さて、それでは村田清風旧宅は記念館の隣なので行きました^^)
ここが母屋です^^)
天保の飢饉や大一揆があって、大変な時に、毛利敬親公が第13代藩主となりました^^)
でもその時は大阪商人にお金を長州藩が借りにっても「あきまへんーー;」と言われたようです^^)
それで人材登用が必要であると、敬親公が村田清風を地方と江戸の財政改革実務担当者に任命したんです^^)続く^^
↓は「贈従四位 大津唯雪翁の碑」です^^)
「毛利元昭題額 楫取素彦撰文 村田看雨謹書」とあって、清風の三男が七卿と帰国したときに、長州藩の俗論派(幕府になびく方)に捕えられて性と家禄を奪われたので、大津と名乗ったと書かれています^^)
続きですけど、敬親公は財政状況を情報公開して、改革の意見書を出させましたけど、清風の革新派と坪井九右衛門の保守派と対立して、いわゆる清風政権は下野したんですけど、倹約が奥方のたちの不評を買ったから、敬親公はダメなのを承知で坪井保守派の上げ潮政策をさせたんですね^^)
お金を使いましょうですね^^)
でも結局莫大な借金だけが残りました^^;)続く^^
「村田清風先生の碑」です^^)
「毛利元昭篆額 山縣有朋撰文 野邨素介書」です^^)
山縣有朋は、萩出身の武士ですから、村田清風の偉大さが解っていますね^^)
続きです^^敬親公の要請により再登板した清風は、政策を実行し安政元年(1854年)に8万貫の負債を全額返済しました^^)
その清風の革新派が、吉田松陰、高杉晋作へと受け継がれた訳です^^)
だから奇兵隊の山縣有朋は解っているんですよ^^)
詳しくは「経済参謀村田清風 霜月一生 著作 」を読んでくださいね^^)
村田清風記念館の内容は濃いし、村田清風とその改革のために、長州藩(山口県)の農漁民の血のにじむ努力が今の日本の礎になったと思います^^)
長門市を後にして、帰路に着きました^^)
明日もお仕事です