ブログネタ:どれくらいの時間ひとりでいられる?
参加中
タイトルの前に^^)
そうですねー^^)
熱中することがあったら、いつまでも一人でいられますね^^)
今はもっぱら本とブログと音楽です^^)
学生時代も本と音楽があれば満足でしたけど、最近はブログというものがありますから、良いですね^^)
それから、旅ですね^^)
電車や飛行機で旅をするのが良いですね^^)
まあお金がかかることだから、山口県を中心に隣県くらいと、たまに遠出ですね^^)
それでは写真です^^)
伊藤博文旧宅・別邸と玉木文之進旧宅を見て、松陰神社に戻って、吉田松陰のかっこいいTシャツを買ったんですけど、この吉田松陰の花押が入ったTシャツはお気に入りです^^)
さて、松陰神社の駐車場から、今度は萩城に抜ける道のから左折すると、野山獄と岩倉獄が向かい合わせにあります^^)
かなり狭い道ですから、普通車がの離合がやっとです^^)
まずは岩倉獄舎です^^)↓
写真奥の右側の碑には「金子重輔君絶命之□ 田中義一書」と書かれています^^)
田中義一さんは第26代内閣総理大臣ですね^^)
岩倉獄舎の由来が書かれていますけど、金子重輔さんは、吉田松陰と一緒に黒船に乗ろうとして、幕府に捕まった人ですけど、士分でない人が入る獄なので、松陰の野山獄でない岩倉獄に入牢しました。
津本陽著作の「松風の人」には、ここへ護送される前に裸同然だった金子に松陰が絹の綿入れの上着を着せるように長州藩の役人に指示するんですけど、金子は「君の情は、何物よりも僕の心を温めてくれる」と言って、しかし断っています。松陰が役人から厳しくされると気遣ったと思います。
安政2年(1855年)ここで病死し、その後贈正五位です。
その岩倉獄舎の反対側が野山獄舎です^^)
映画「獄(ひとや)に咲く花」で松陰が野山獄舎での入牢を描いていますけど、映画では、比較的自由に過ごしていたとなっています^^)
でもただ食べて寝るだけで、何の希望もない獄ですから、受刑者に松陰は国際情勢や地理、歴史、兵学、儒学などを教えています^^)
また食べ物をはぶき、金子重輔さんのためにお金をためて墓前に花筒を捧げました。
松陰は獄でも国の行く末を案じていました。しかし、藩内の勢力が一本化していなかったから松陰も金子重輔も酷い目にあいましたけど安政2年に出獄し、安政4年に松下村塾を開塾します^^)
安政5年に毛利敬親公が江戸から帰ると、家老の益田弾正や前田孫右衛門、周布政之助らの改革派の要人が主流となって、松陰の意見を積極的に生かすようになりました(「松風の人」)^^)
岩倉、野山獄を後にして、明倫館の隣側に元の萩市民球場があった跡地に行きました^^)
今は公園になっています^^)
立派な萩図書館が出来ていました^^)
その公園の道路側に大きな銅像がありました^^)
第3代内閣総理大臣の山縣有朋公です^^)
我が家の息子に大きさを説明するのに、宇部弁で「まぶり でかい!」って言ったら、「伝わらないーー;」って言われました^^;)
そうですねー^^三階建の家くらいあります^^)
山縣有朋は西郷隆盛に心酔していたし、目標でもあったとおもいます^^)
西郷隆盛を尊敬して大変お世話になったから、征韓論政変で積極的に動かず木戸への義理と西郷への人情で板挟みになっていたようです^^)「山県有朋 伊藤之雄著」^^)
ものすごく優しい人だと思います^^)↓
公園を離れて、今度は長門へ向かいました^^)
明日もお仕事です