私の知り合いが、今、天草に帰省していて、「今年天草四郎生誕400年になる」と連絡をくれたのでこれを書くことにした。

この地はもともと長崎を含めてキリシタン大名有馬晴信の支配するところであり、この頃の日本のキリスト教の中心地でもあった。しかし、キリスト教を棄教した有馬家が転封によってこの地を去ると、まさにキリスト教を弾圧することが使命だと考えているような大名松倉重正がこの地に入部し圧政を敷いた。それは一方では領民に対する容赦のない年貢の取り立てであり、一方ではキリスト教徒への棄教、仏教への改宗を迫る弾圧だった。その暴政に耐えきれなくなった島原の百姓が一揆の旗を揚げたのだ。この島原と海を挟んで対岸にある天草にも一揆が波及した。そうした中で、天草の大矢野島というところにいた小西家浪人益田甚兵衛の息子四郎時貞という者が、数々の奇跡を起こしたという話が伝わってきた。水の上を歩いたとか天から鳥が降りてきて四郎の掌の上で卵を産んだので、その卵を割ってみると聖書の一節を記した紙が入っていたとか。

有馬家は将軍の命令で他の地を与えられ移った。彼が新しい地へ連れて行った人数はごくわずかだった。大部分の家来や貴人たちはあとに残された。ところが、後任となった松倉家は反対に、家来のほとんどすべてを連れて着任した。そこで、先のその地を去った有馬家に仕えていた人たちは、収入をすべて奪い取られ、貧困に迫られた結果、農夫となってその妻子のために生活の糧を求めるより他はなかった。彼らはこうして身分は農民になったが、実際は武器の操作に熟練している武士であった。新領主である松倉重正はそのことが気に入らなかった。そして、これらに人々にまた他の農民たちに上にもますます重い税を課し、到底負担に耐えられない程多額の米を差し出すよう強いた。こうした松倉重正の暴政に対して元武士であった人々が立ち上がったのがそもそもの島原の乱の発端である。

幕府は、キリシタンに対する恐怖心と警戒心を高めるために、この一揆をその信仰の面だけを強調し政治的な面からは目をそらせるように扱った。ギリギリ追い詰められた農民が耐え兼ねて放棄したという印象を一般に与えないように努めた。

天草四郎こと益田四郎時貞は、父甚兵衛の君主小西行長の旧領であった肥後国宇土郡の江部村に住んでいた。この親子が、同じ小西家旧臣が潜伏していた天草の大矢野島を中心に活動を始めた。それは肥前国島原の旧有馬領の地侍や百姓を扇動して、「反徳川」の兵をあげることだった。この乱の「象徴」として神に祝福された少年『天草四郎』がどうしても必要だったのだ。つまり、鎌倉幕府をつくって、武士たちの念願であった『土地所有』を認めさせた、源頼朝と同じように旗印として必要だったのだ。