時は、1567年9月3日。
大友傘下の武将である古処山城主・秋月種実(当時20歳頃)は、
高橋鑑種に同調し大友氏に対して謀反を起こした。
怒った大友宗麟は、戸次道雪・吉弘鑑理・臼杵鑑速の所謂「豊後三老」に秋月討伐を命じた。
大友勢は邑城・休松城を落とし本拠・古処山城に迫った。
古処山城の守りは堅く名将・戸次道雪を以てしても容易に落とせず膠着状態が続いた。
折りしも秋月氏の盟友・毛利氏(種実は亡き毛利隆元と義兄弟の約を結んでいた)が、
九州に迫るとの報を受けると大友傘下の国人衆は動揺し自領に引き上げてしまった。
この状態を知った宗麟は一時撤退を命じる。
大友軍の撤退を見るや秋月種実は父・文種や長兄・晴種の仇を討つべく、
戸次勢に攻撃を加える。
これに対し道雪も、異母弟・鑑方ら一族や由布雪下・小野和泉らと迎撃する。
戸次勢の猛攻に秋月勢は逆に蹴散らされ多くの死者・負傷者を出して撤退した。
翌日4日。
秋月種実は夜半風雨の強い中夜襲を決行し再度大友勢を襲った。
臼杵・吉弘・戸次陣は秋月勢の夜襲によって大混乱に陥り臼杵勢や吉弘勢は崩れ立つ。
ここでも戸次道雪は冷静に対処し臼杵勢や吉弘勢を収容し撤退には成功したものの、
秋月勢に筑後山隈城まで追撃され多くの将兵を討たれてしまう。
この戦いでも道雪の奮戦は目立ったが、戸次一族や家臣の犠牲は甚大だった。
戸次一族は異母弟・鑑方を始め鎮比・親繁・親宗・親久が、
家臣団では十時惟忠・ 小野鑑幸・ 由布惟清・ 綿貫吉廉が討死した。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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