文禄元年(1592)初春。
島津又七郎忠豊が守る朝鮮国江原道の春川(チュンチョン)城は、
蜂起した義軍六万騎(公称)によって、
二重三重に取り囲まれていた。
「奴らめ、撤退したのでは無かったのか。」
実は、春川城に敵軍が押し寄せてきたのは二度目。
最初の時は即座に永平(ヨンピョン)の島津義弘に後詰を依頼。
即座に後詰の人数を催し駆けつけてくれたのだが、
増援を遠望した敵軍は一戦も交える事なく退却してしまい、
義弘勢も漢城などの守備の為に帰還していた。
だが、撤退した筈の敵軍は後詰が引き上げると再び蜂起し、あっと言う間に春川城を包囲。
攻め鼓を打ち、息もつかせぬ攻城戦を開始した。
この時、城内の兵力は馬上三十数騎、兵五百余り。
しかも頼みの城は普請中の未完成で防衛機能は不完全。
忠豊は下知した。
「この城、普請も未だ丈夫ならず。殊更、後詰の勢を相待つ間も無し。是、十死一生なり。」
敵は圧倒的大軍で完全包囲され、逃げ場は無い。
城は籠城に耐えず、援軍到着までの時間稼ぎは不可能。
この絶体絶命の危機に際して、主従の出した結論は。
「善く戦う者は死せず! 助かる道は敵を撃滅せぃ!」
「チェスト―!」
忠豊は寄せ手が城壁を乗り越えようとするまで接近させた上で、百丁の鉄炮で斉射十連。
敵軍先手を敗走させるや、
全軍に真丸になって斬って出るよう下知。
縦横無尽に懸け破った。
敵軍は僅かの小勢に懸け立てられ、這々四方に引き退く。
忠豊はこれを少々追い打ちし、軽々と城に引き取った。
その時、討ち取る首級七十余り、左の耳と鼻を切って名護屋に献上し、感状を賜る。(征韓録)。
別の史料では五百三十余りを討ち、うち二人は将だったので首塚を築いたとも。
島津又七郎忠豊、後の豊久の籠城戦である。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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