岐阜の役の時、堀尾吉晴の子・忠氏は戦功を立てた。
吉晴はこの日の勝利の報告を聞き、首帳を見たところ、
「首一つ、十五歳、山田多門兵衛」
とあるのを読みも終わらず、
「近頃まで竹馬に乗っていた童がもう功名を立てたかぁ。
父親が存命ならどれほど喜んだことであろうか…。」
と涙を流した。
また、
「梯子権八の功名が記されていないのは何故だ。
討死したならともかく、功名については上から三番目以内に入っているはずの者なのに。」
と怪しんだが、やがて飛脚がやって来て、
「権八は一番に続いて首を取りましたが、
手負いのために首帳に記すのが遅れました。」
と告げたので、
「私の見立てに、狂いはなかった。」
と言ったということだ。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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