元亀元年(1570)4月27日、
浅井父子とその他近江の城主らは、金ヶ崎・手筒山両城ともに降参したとの由を聞いて、
信長の後ろを遮って討とうとした。
信長は大いに驚いて兵を引き、
28日、朽木越えのため引き返した。
越前勢は追いかけて戦い、信長はまさに討死せんとしたが、
松平三河守家康が、後殿して朽木谷に差し掛かった。
この時、朽木信濃守元綱は、8百余騎で難所に引き受け信長を討とうと遮った。
信長は通れず、松永弾正久秀は、朽木と旧好があったので松永が、
まず行って朽木を頼んだ。
朽木は節義も一時の所縁も忘れてこれを許し、信長を通した。
信長は虎口を逃れて京都に至った。
近江の諸士は皆、朽木に義のないことを憎んだ。
浅井長政は、朽木を辱めて曰く、
「元綱はなぜ馬を他門に繋ぎ肩をそばだて尾を振るのか!
そもそも朽木は江州先方の士にして、
しかも佐々木家血脈の一流ではないか!
その業の口惜しきことよ、名字を汚した士なり!」
これに朽木は、一言の返答にも及ばなかった。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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