細川幽斎・忠興父子により、丹後弓木城主である一色五郎(義定)が謀殺された後、
幽斎の娘であった、その内室は宮津へと帰った。
そこで一色五郎の討たれた終止を聞くと、
その最期の時を想い深く嘆いて過ごした。
彼女は、このように語った。
「過ぎし八日の卯の刻(午前6時ころ)、殿は私に向かってこう仰られました。
『今日は細川殿と対面する。
我が家と細川殿、互いの先祖は親しくして代々公方様へ仕えつつ、
ここかしこの戦において、互いに頼み頼まれ、力を合わせてきたと見える。
古い文なども今に残っている。
子孫の末となったが、昔を思えば懐かしく、またこのように親子の縁となった。
宿縁の浅からぬ不思議さよ。』
そうしていつもより丹念に、馬鞍をきれいに装わせて弓木を出発されました。
私が一色に嫁いでより、あのように賑々しい供人にて、
いづくの地へも出かけたことはありませんでしたから、
私もひとしお嬉しく、城の窓から一行を見送りました。
須津の浜道を過ぎ山路に差し掛かると、そのあたりを覆っていた朝霧も吹き払われ、
とても幽幻な姿に写りましたが、それもやがて松陰に見失い、供人も見えなくなり、
心の中にやるせない思いを成し、
そぞろに涙がこぼれそうになりましたが、忍んでそのような姿を人に見せませんでしたが、
なにやら不吉な気もして、盃を出させ、女房たちも慰めました。
それなのに、思いの外の事があって失せさせられた哀しさよ。
このような企てが有ったとは、夢にも知りませんでしたが、
御最後の時、さぞかし私の事も恨まれたでしょう。」
そう、明け暮れに嘆かれたという。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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