これぞ、一色滅亡の基☆ | げむおた街道をゆく

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丹波福知山の住人・細川兵部太夫藤孝の子息・與一郎忠興の丹後入国の由来を詳しく尋ねるに、
天正の頃、織田上総介平信長は弓箭盛んにして、東は美濃尾張、西は播州を限りに、

五畿内南海、悉く信長に属し奉った。

 

しかし丹後国は未だ御手に入らざりしを、明智日向守光秀が謀して、
河北石見という者を大将に仕り、雑兵二、三〇〇ばかりにて、

丹後国を大物見にて差し越しける。

河北石見、先ず与謝郡石川谷に討ち入り、堡塁二、三ヶ所落とし、

その勢いに国中を遵見しようとしたが、
国侍たちは強く、在々所々にて河北の人数は打ち留められ、

河北石見はほうほうの体にて丹波を差して逃げ帰った。

猶も明智は当国に謀をめぐらし、終に一色五郎(義定)を欺き、

細川の聟に仕ることを取り持った。
細川與一郎忠興は光秀の聟である故にだろうか、

丹後半国を細川父子に参らせ、一色・細川両旗にて、
堅固に治め給えば終始然るべしと、光秀が強いて取り持ったのである。

一色殿は代々丹後の国主として、一色五郎は近年は宮津八幡山に居城していたが、

天正三年、父左京大夫(義道)卒去の後、

国中の諸士五郎殿を背き、それぞれ不敬を以て会うような時節であったため、

本意ではなかったが、流れに棹さす心地して、光秀の計らいに任せた。

中郡、竹野郡、熊野郡は一色殿、与謝郡、加佐郡は細川と定め、

その上一色殿は奥郡手使いのためとて弓木の城に移し、

八幡山は細川に渡されすべしと定まって、細川父子入国のことを了承された。
これぞ一色滅亡の基であった。

かくて細川父子の人々、天正九年の三月に宮津に入り、八幡山に入城されたが、

こうして河守あたりより奥宮津までの地侍、百姓たちは細川に従った。

城持ちでは、公庄但馬下村の城主・上原徳壽軒、

奥宮津の小倉播磨、惣村の城主・北庄鬚九郎、これらの者達が先ず細川殿に従った。

翌年子の年よりまた、宮津の平地、海寄りの場所に城郭を築いたが、

丹波国より明智の人足が多く来て、城普請を致した。

 

 

 

戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。 

 

 

 

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→ 丹後北半国を統治、一色満信

 

 

 

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