横瀬氏は、元々は新田氏の血を引く上野の名族・岩松家に仕える家柄であったが、
戦国中期の横瀬泰繁の代から家中を牛耳り、やがて主家を凌ぐ権力を得ていた。
だが、専横を極める泰繁は、天文14年(1545年)に下野壬生合戦で戦死し、
後を息子の由良成繁が継ぐことになる。
そしてこの成繁は父以上に容赦がなかった。
家督相続時、成繁は40歳という年齢で政務への参加歴も長く、
「家中法度」「百姓仕置法度」
などを制定するなど、
既に実績充分で家中の信任を得ており、
泰繁の死という絶好の機会が有りながらも既に梯子を外されているどころか、
当主が幽閉されてしまっている岩松家は、流れを変えることは出来なかった。
そして天文17年(1548年)頃、時の岩松当主である岩松氏純が、
長年の幽閉に精神が擦り切れたのか自殺し、
跡を岩松守純が継ぐと、これも成繁は幽閉した。
成繁は名実ともに新田荘の支配者となるべく時の将軍・足利義輝との関係を重視し、
また関白近衛前嗣が関東に訪れた際には、これを持て成して義輝より賞詞を賜った。
やがて幕府との関係強化が身を結び、
永禄7年(1565年)に成繁は幕府より刑部大輔に任じられ、
御供衆に加えられるとともに毛氈の鞍覆と白傘袋を免許された。
こうして横瀬氏の新田荘支配の正当性は、幕府公認という事になったのである。
成繁はこれを期に、姓を横瀬から新田荘は由良の地からとって「由良」と改めた。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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